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日本人の物語01543【室町/西国/応仁の乱】上京の戦い

上京と書いて「かみぎょう」と読みます。今も京都市上京区という地名があります。

 応仁元(1467)年5月24日。いよいよ武力衝突が始まりました。細川勝元の命を受けた若狭守護・武田信賢(東軍)が、丹後守護・一色義直邸(西軍)に押し入ったのです。一色義直自身は山名宗全邸にいたため無事で、戦闘もないまま屋敷は焼き払われました。一色義直邸が最初に狙われた理由は、東軍の勢力下にポツンと一軒だけ西軍武将の邸宅があったからでしょう。
 この焼き討ちが宣戦布告の代わりとなりました。5月26日には西軍方から南一条大宮の細川勝久(ほそかわかつひさ:?~1494)邸への攻撃が始まり、本格的な合戦となりました。細川勝久邸が狙われた理由は、これまた西軍の勢力下にポツンと一軒だけ東軍武将の邸宅があったためです。
 西軍の主力は斯波義廉ら1万騎で、細川勝久は絶体絶命のピンチに追い込まれましたが、ギリギリのところで東軍・京極持清ら1万騎が加勢に現れました。
 逆に苦戦となった斯波軍でしたが、斯波家臣・朝倉孝景が馬から飛んで敵に斬り付けるなどの大活躍を見せ、京極軍を見事撃退しました。細川勝久は再びピンチに陥ります。
 細川の窮地を助けに来たのは、赤松政則でした。何度か説明したとおり、赤松家は山名家と領国が隣り合っていたこともあり、何度も争った仇敵です。今回も山名憎しの思いから赤松家は東軍に加勢しています。
 赤松政則は
「備中守(勝久)が無下に殺されるのを見るのは恥辱である。お助けしようではないか」
と述べ、僅か300騎で加勢してきました。この300騎が意外にも善戦し、見事斯波軍を追い払うことに成功しましたが、勝久邸はそれまで持ちこたえることができず、勝久自身が火をかけて焼き払うこととなりました。
 戦闘は翌27日夕方まで続き、百万遍(京都市左京区)は兵火にさらされ、両軍の陣地の多くが焼き払われました。市街戦であったため、戦闘とは無関係な寺社や庶民にも大きな犠牲を出しましたが、東西両軍の犠牲は同程度であり、決着はつきませんでした。
 応仁元(1467)年5月28日。義政は両軍に停戦命令を出しました。このとき畠山義就(西軍)宛てに送った命令書が現存しており、
「今回のことは言語道断ではあるが、ひとまず河内に下向して争いを避けてほしい」
と書かれています。やはり義政は、気持ちの上では西軍に味方したい思いがあり、文面上にも東軍の行いを糾弾する気持ちがやや表れているように思います。しかし表立っていずれか一方を支持することは避けているようです。

戦国大名としては斯波より朝倉の方が有名ですよね。それは応仁の乱で朝倉孝景が活躍して家名を挙げたからなのです。

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