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日本人の物語00284【平安前期】時平死す

 延喜6(906)年。藤原定国が40歳で死去しました。道真左遷に一役買ったあの定国です。ここから道真の怨霊による復讐ラッシュが始まります。
 延喜8(908)年10月7日。藤原菅根が落雷によって死にました。宇多法皇を内裏に入れなかったあの菅根です。落雷とはあまりにも不運な死に方ですね。
 延喜9(909)年4月4日。藤原時平が38歳で死去しました。そのあまりに早すぎる死に、人々は恐れおののきました。「道真の怨霊が蛇となって現れ、時平に取り憑いたために死んだ」との噂が都を駆け巡りました。
 時平が死ぬと、醍醐天皇は摂関を置かず親政を実施するようになりました。これが「延喜の治」と呼ばれ、後世称えられることとなります。実際には、荘園整理に失敗するなど、大したことはやっていないのですが、摂関を置かないというだけでもこの時代には珍しいことですから、後世になって美化されたのでしょう。
 後世に創作されたエピソードですが、醍醐天皇が池にいた鷺を捕らえよと指示したとき、蔵人が鷺に「勅命であるぞ」と声をかけたところ、飛び立とうとしていた鷺がひれ伏しておとなしく捕らえられたという話があります。天皇が大いに喜び、鷺に五位の位階を与えたとか。醍醐天皇の権威を高めるために創作された話でしょう。
 延喜13(913)年3月12日。源光が鷹狩りの途中、泥沼にはまって死亡しました。死体は最後まで見つかりませんでした。
 これで、道真左遷に直接参画した4名全てが早世したこととなります。
 延喜19(919)年。醍醐天皇が左大臣・藤原仲平を大宰府に遣わし、道真の墓所に社殿を造営しました。道真の怨霊を鎮めようとしたのでしょう。これが後の太宰府天満宮となります。
 ちなみに平安時代の大宰府は点のつかない「大」の字ですが、後に「太宰府」と点のつく字が使われるようになり、現在の福岡県太宰府市も太宰府天満宮も「太」の字が使われています。ややこしいですね。
 延喜23(923)年3月21日。皇太子・保明親王が20歳で死去しました。保明親王は醍醐天皇の子で、時平の甥に当たりますから、道真の恨みが向けられたことは大いに理解できます。皇太子の死を受けて、保明親王の遺児・慶頼王(よしよりおう:921~925)が2歳で立太子しました。
 ところが延長3(925)年6月19日、慶頼王は4歳で死去し、やむなく保明親王の弟に当たる寛明親王(ゆたあきらしんのう:後の朱雀天皇:923~952)が2歳で立太子することとなりました。
 道真の怨霊は、遂に皇室にまで害を及ぼし始めたのです。

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