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日本人の物語01621【室町/東国/長尾景春の乱】成氏の変心

長尾景春もだいぶ個性的な人物ですが、今回は成氏のやばさを取り上げます。

 長尾景春は神出鬼没で、モグラ叩きのようにいつどこに現れるか分かりません。
 文明12(1480)年1月13日、景春は飯塚(埼玉県深谷市)に現れましたが、扇谷上杉定正が攻撃しようと近づくと逃げ出しました。続いて1月20日に景春は越生(埼玉県越生町)に現れましたが、太田道真の軍に叩かれるとすぐに日野城に撤退していきました。
 ここで享徳の乱の最大の謎ともいえる書状を紹介しておきましょう。2月25日付けで成氏が幕府の最高権力者たる細川政元宛てに発出した書状が現存しており、そこにあまりに意外なことが書かれているのです。
「山内も扇谷も、私と幕府の和睦を全く進めてくれていない。そこでこの度、私の名代として長尾景春を指名するので、景春からの交渉を受け付けてもらいたい」
 これは何ともおかしな話です。これまでの流れを整理すると、
①上杉方と成氏は停戦協定を結んだが、景春はそれに違背して戦闘を継続していた。
②道灌に敗北した景春は成氏の陣に逃げ込むが、成氏は道灌に「景春は私の家臣ではない。さっさと退治してくれ」と述べた。
③しかし成氏は景春を仲介役に指名して幕府との交渉を開始した。
というわけで、②における成氏の発言は嘘で、景春は一貫して成氏の指示に従っていたのだろうと判断したくなりますね。
 この点、黒田基樹氏ら多くの歴史家は、
〇景春の戦闘継続は成氏の指示ではなく、成氏はただ静観していただけ。
〇景春が自陣に逃げ込んできたので、成氏は道灌に「退治してくれ」と伝えたが、これはその場しのぎの言葉であり、成氏には景春を憎む気持ちはなかった。
〇景春退治に躍起になった上杉方が都鄙和睦を仲介してくれないことに成氏は苛立っていた。そこに景春から「上杉が頼りにならないなら、私が仲介しますよ」との提案があったため、成氏は上杉を見捨てて景春に乗り換えた。
と解釈しているようです。
 しかし長尾景春は山内上杉家の家宰の家柄で、しかも当主ではありません。幕府へのコネクションなど持っていませんし、成氏もそのことを理解していたはずです。そんな景春を通して幕府と交渉などできるわけもなく、景春を頼るとはひどい政治的センスの欠如です。
 とはいえ、景春も全く虚偽の提案で成氏を釣ったわけではなく、堀越公方の執事・犬懸上杉政憲を通して何度か書状を京都に送っている状況がみられます。ちょっと迂遠な気がしますが。
 このような成氏の変心を上杉方が知っていたかどうか分かりませんが、ともあれ景春が再び勢力を盛り返してきたため、山内上杉顕定は日野城の攻撃準備にかかりました。道灌は相変わらず「日野城よりも武蔵の平定が先です」と進言しましたが、容れられませんでした。

成氏、相当に狡猾な人物のような気がしますね。長尾景春は直情径行で猪突猛進といった感じでしょうか。

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