日本人の物語00578【鎌倉前期】三左衛門の変
頼朝の死の直後の建久10(1199)年1月22日から、京都はにわかに緊迫し、「通親の命が狙われている」「戦乱が起こる」との噂が流れ始めました。土御門通親は
「今、外に出ては殺されかねない」
と言って院御所に立て籠もり、その周りを警護の兵が取り囲みました。
噂が流れてくるばかりで、一体誰が通親を狙っているのか不明でしたが、2月11日になって、左馬頭・源隆保(みなもとのたかやす)が自邸に武士を集めていたことが発覚し、隆保は捕らえられました。
そして2月14日になると、
・後藤基清
・中原政経(なかはらのまさつね)
・小野義成(おののよしなり)
の3名も幕府方の御家人に捕らえられ、院御所に連行されていきました。さらに頼朝と懇意であった僧・文覚までもが共犯者として検非違使に身柄を拘束されました。いずれも、幕府と結びついて朝廷内の独裁者になろうとしている通親に不満を感じていたのでしょう。
上記の3人はいずれも「左衛門尉」の官職を受けていたため、この事件を「三左衛門の変」といいます。三左衛門の変は、土御門通親が幕府の協力を得て、朝廷内の不満分子をあぶり出して一掃した事件と総括できるでしょう。
三左衛門は鎌倉に護送されますが、その後の処分は記録が残っておらず不明です。一方で、文覚は佐渡へ配流となりました。
文覚は頼朝にとって平家打倒を決意させてくれた恩人ですが、あまりの個性の強さから頼朝自身警戒していた人物でした。『平家物語』には、頼朝が文覚を評して
「自分が生きている間はよいが、死んだ後はいつ敵になるか分からぬ」
と呟いたとの逸話が残されています。文覚は幕府を裏切りかねない人物と目されていたのでしょう。
文覚が保証人となることで一命を救われていた六代(00533回参照)は、文覚の配流にあわせて処刑されてしまいます。
平家が滅亡した原因は、清盛が義母・池禅尼の意見を容れて頼朝を生かしてしまったことにありました。鎌倉方としてはこの教訓から、清盛の直系子孫は一人残らず殺しておく必要があります。大恩ある文覚の嘆願であったためやむなく六代を生かすこととしましたが、機会あらば斬ってしまおうと思っていたのでしょう。
この六代の死により、平清盛の直系男子は一人残らず死去したこととなります。
