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日本人の物語00988【南北朝前期】懐良親王の九州派遣

今、下書きは応仁の乱のあたりなのですが、登場人物も多い上に全国あちこちで同時並行的にいろんな事象が発生するので、まとめるのがかなり難しいです。戦国時代に入ったらどうすりゃいいのか・・・。

 菊池家の家督を継いだ武光が早速行ったことは、後醍醐天皇の八男・懐良親王を自らの陣に迎え入れたことでした。ここで時代を少し遡り、九州の動向を大きく変えた後醍醐天皇の八男・懐良親王の九州派遣について述べておかなければなりません。
 延元3/暦応元(1338)年、後醍醐天皇が奥州・関東・九州それぞれに皇子を派遣したことは既に述べました(00932回参照)。このとき、まだ10歳に満たない懐良親王は、側近に五条頼元を付けられて征西大将軍という官職を与えられ、まずは伊予国忽那島(愛媛県松山市忽那諸島)に渡ったのです。親王はそこで味方を募った後、興国3/康永元(1342)年5月1日に九州に入りました。
 九州の中で、懐良親王が最初に足を付けたのが薩摩の地でした。当時薩摩では、谷山隆信(たにやまたかのぶ)が南朝方として活動し、強大な土豪として権勢を誇っていました。ところがそこに現れた新興勢力・島津貞久(しまづさだひさ:1269~1363)が、私領を拡大して谷山氏を圧迫し始めていたのです。
 谷山隆信は、懐良親王の権威をもって島津氏を支配しようと、谷山城(鹿児島県鹿児島市)に親王を迎えました。島津貞久はそうはさせまいと6月19日に谷山城を攻撃しますが、懐良親王を擁した谷山軍に大敗を喫しました。その後も谷山氏と島津氏は小競り合いを繰り返しますが、なかなか決着がつきません。
 正平2/貞和3(1347)年6月6日には、熊野水軍を味方につけた懐良親王・谷山隆信が、海と陸から島津貞久の本拠である東福寺城(鹿児島市清水町)を急襲しましたが、島津方はかろうじてこれを撃退しました。
 結局、懐良親王は5年半の間、谷山城に滞在しました。
 この5年半というのは、肥後国の菊池氏が南朝方の勢力盛り返しに奔走していた時期です。武光が興国6/貞和元(1345)年3月に菊之城を取り返したことは前述のとおりです。
 菊池氏が頑張っていると知った懐良親王は、これを支援するため薩摩から肥後に移ることを決めました。
 正平3/貞和4(1348)年2月、懐良親王は肥後で菊池武光と合流し、以後13年半に渡ってここを拠点としました。この拠点は征西府と呼ばれ、現在の熊本県八代市に当たります。
 9歳で父(後醍醐天皇)と離れ、九州制圧という大業を委任された懐良親王は、このとき19歳に成長していました。ここで菊池武光という大きな味方を得て、やがて九州の帝王といわれるほどの勢力を得ていくのです。

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