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日本人の物語01484【室町/西国/大乱前夜】畠山義就追討令

畠山義就はいわゆる「脳筋キャラ」といったところでしょうか。山名宗全とちょっと似ていますが、宗全の方がまだ冷静に作戦を立てるタイプかもしれません。

 六角の次は畠山家の内紛を見ていきましょう。
 前述のとおり、畠山義就は将軍の命令と偽ってあちこちに攻撃を仕掛けていることが露見し、義政の信頼を失っていました。ライバル政長にもまだまだチャンスがありそうです。
 長禄4(1460)年9月16日。遂に義就の処分が決まりました。「隠居在国」、つまり河内国の城に留まり、もう京へは出てくるなというわけです。
 義就が家督を譲り渡す相手として指名されたのは、政長ではなく能登守護・畠山義有(はたけやまよしあり:?~1440)の子である政国(まさくに:?~1470)でした。畠山家は河内だけでなく能登にも一族が配置されていたのです。幕府は義就に対して、この政国を養子にとって家督を譲るよう命じたのでした。
 この人事は管領・細川勝元の取りなしによるものでした。勝元はいつも政敵を完全に葬り去るのではなく、妥協できるポイントを模索するタイプです。かつて赤松政則に但馬・播磨ではなく加賀の領地を与えたのはその典型例です。今回も、畠山義就に対して「仇敵の政長に譲れ」では納得しないだろうと思い、第三者を用意したのでしょう。
 ところが義就にこの温情は通じませんでした。家督を追われたことに激怒した義就は、9月20日、都落ちして若江城(大阪府東大阪市)に向け出発しました。このとき、義就は滞在していた被官・遊佐氏の屋敷に放火した上で京を出たのです。これは将軍の差配に抗議の意を示す意味がありました。
 この放火の一件に義政は激怒し、政国への家督継承を取り消して、政長に家督を継がせるよう命じました。もはや義就への妥協は無用というわけです。それのみならず、閏9月3日には政長に対し、義就追討令まで出しました。義就派と政長派は既に大和国内で戦っていましたが、反乱軍と鎮圧軍の立場が入れ替わってしまったのです。
 閏9月9日には政長が義就追討のため、奈良へと下向していきました。政長に味方するため成身院光宣と筒井順永が出迎え、本格的な反攻が始まります。
 閏9月10日から、政長が派遣した鎮圧軍が牧野城(奈良県五條市)を攻撃し始めました。14日には義就方は敗走し、信貴山城(奈良県平群町)に向かいます。それを追う政長方は、信貴山城攻撃の準備のため、16日に龍田城(奈良県斑鳩町)に陣を布きました。
 閏9月17日には、なんと後花園天皇から義就追討の綸旨が出ました。義政は義就への怒りを抑えきれず、天皇の命令まで担ぎ出してきたのです。
 天皇・将軍の両方から追討令を出された義就は、もはや万事休すと思われたのですが、義就はまだまだ粘ります。

義政もだいぶエスカレーションが激しい人間だと思われます。

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