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日本人の物語00711【鎌倉後期】平禅門の乱

 持明院統との蜜月関係を築き、執権貞時を傀儡として独裁者のように振る舞っていた平頼綱でしたが、正応4(1291)年頃から執権貞時との関係が悪化してきます。このとき、頼綱50歳に対して貞時19歳ですから、貞時としてもそろそろ自ら政務を執りたくなる年頃でしょう。
 この頃、頼綱は善空(ぜんくう)という僧を京に送り込み、朝廷の訴訟や人事に介入させていました。頼綱と良好な関係を保っていた伏見天皇といえども、さすがにこれには我慢ならなかったらしく、5月、側近の京極為兼を鎌倉に派遣して善空の排除を図りました。京極為兼が誰とどんな交渉に及んだのか記録が残っていませんが、為兼の働きかけは功を奏し、間もなく善空は京から追放されました。
 このことは、鎌倉内にも頼綱に対抗できる勢力が育ってきていたことを示します。その対抗勢力とは、おそらく貞時のことでしょう。
 頼綱の敵は執権貞時ばかりではありません。頼綱はこの頃、次男の資宗(すけむね:1267~1293)ばかりを可愛がり、長男の宗綱とひどく対立していました。というのも、かつて頼綱は宗綱を7代将軍・惟康親王の側近として仕えさせたことがあり、宗綱は惟康親王の人間性に強く惹かれ、肩入れするようになったのです。頼綱が惟康親王を追放したことに、宗綱はひどく不満を示したといいます。
 加えて、頼綱は次男の資宗を8代将軍・久明親王に仕えさせるべく、京に迎えに行かせました。資宗は久明親王を鎌倉に連れてくるに当たって、
「流され人ののぼり給ひしあとをば通らじ」(流罪人の通った道は通らない)
などと放言して、箱根を通らず足柄山を越えたといいますから、宗綱は父と弟の振る舞いに激怒したことでしょう。
 正応6(1293)年。宗綱は執権貞時に
「父は将軍位を狙っている。次男の資宗を将軍にしようとしている」
と密告し、両者を葬るよう進言しました。
 それ以降、貞時は頼綱を殺害する好機を狙っていたのですが、たまたま4月13日に鎌倉で大地震が起こり、2万3千人が死亡するという事態が発生しました。その後も余震が立て続けに発生し、御家人も住民たちも大混乱に陥りました。
 貞時は、これは好機とばかりに兵を派遣し頼綱邸を襲撃させました。4月22日、頼綱・資宗父子は殺害され、貞時は執権就任以来初めて名実ともに幕政の実権を握ることとなりました。当時平頼綱は出家して「平禅門」と呼ばれていたので、この事件は「平禅門の乱」と呼ばれます。
 貞時が新たな内管領として登用したのは長崎光綱(ながさきみつつな:?~1297)という人物で、頼綱の弟とも従弟とも伝わっていますが、さほどの存在感を発揮しなかったようです。

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