日本人の物語00728【鎌倉後期】大覚寺統の分裂
元亨4(1324)年6月、大覚寺統の重鎮・後宇多法皇が病に倒れました。余命いくばくもない後宇多法皇は皇太子・邦良親王を呼び、帝王の心得を諭すとともに、後醍醐天皇の治世下で不遇をかこつ廷臣たちを引き立てるよう指示しました。
この頃、後宇多法皇は次男・後醍醐天皇とひどく対立しており、亡き長男・後二条天皇の遺児である邦良親王を溺愛していたようです。後宇多法皇としてはあくまで長男の系統に今後の皇位を継承させたいのであって、次男・後醍醐天皇は中継ぎと位置付けていたのに対し、後醍醐天皇は機会あらば兄の系統を亡き者にして、自らの子孫に皇位を継がせたいと考えていました。
6月25日。孫の将来を案じつつ後宇多法皇は崩御しました。政敵である花園上皇は日記に
「(後宇多法皇は)当初は善政を施したが晩年は賄賂政治に堕した」
と評しつつも、
「末代の英主なり。愛惜せざるべからず」
と記してその功を讃えています。
8月。邦良親王の側近・六条有忠(ろくじょうありただ:1281~1339)は後宇多法皇の遺志を受け、鎌倉へ発ちました。邦良親王への譲位を実現するべく、幕府の力を借りに行ったのです。
それにしても、花園上皇にしても後宇多法皇にしても、なぜいちいち幕府に指示を仰ぎに行くのでしょう。幕府には朝廷の人事や所領に介入したいとの意向はなく、いつも迷惑そうに接した上で、両統の顔を立てる適当な判断をするだけなのに、この時代の朝廷は皇族も公家も皆、判を押したように何かというと幕府にお伺いを立てるのです。後醍醐天皇だけが変わり者だったのでしょうか。
以上述べてきたように、大覚寺統は後醍醐派と邦良親王派の2派に分裂し、持明院統を含めた三つ巴の対立となってきました。しかし、大覚寺統の分裂は2統対立が3統対立に変わったというに留まらない重要な意味を持っていました。というのも、これまでの2統は
「幕府に工作して幕府の裁定によって他派を圧倒しよう」
と考えていたのに対し、後醍醐天皇は幕府を頼るどころか幕府を滅ぼした上で3統の頂点に立ち、天皇親政の世を作ることを考えていたのです。
父・後宇多法皇というタガを失った後醍醐天皇は、側近の日野資朝・俊基らを使って幕府転覆の計画を練り始めます。
