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日本人の物語00941【南北朝最初期】南北朝最初期総括

 南北朝の成立から後醍醐天皇崩御までをお話ししてきました。
 前章でお話しした建武期の3年間のうちに、既に南朝方の有力武将たる「三木一草」が4人とも戦死しましたが、南北朝時代が始まってすぐに北畠顕家と新田義貞までもが戦死してしまいます。
・北畠顕家 延元3/建武5(1338)年5月22日: 石津の戦いで戦死
・新田義貞 延元3/建武5(1338)年閏7月2日: 藤島の戦いで戦死
 加えて、後醍醐天皇の子の3人までもが、北朝方によって殺害されます。
・尊良親王 延元2/建武4(1337)年3月6日: 金ヶ崎城の戦いにて自害
・恒良親王 延元3/建武5(1338)年4月13日: 越前国府の戦いの後に毒殺
・成良親王 延元3/建武5(1338)年4月13日: 同上
(ただ、恒良親王と成良親王については、『太平記』に毒殺された旨が書かれているものの、古文書の中には彼らの生存を思わせるものもあり、毒殺云々は後世の創作である可能性も指摘されています。)
 そして南朝方にとって最大の痛手だったのは、肝心の後醍醐天皇が崩御したことでしょう。
 一方、北朝方は未だに重要人物を失ってはいません。足利尊氏・足利直義・高師直・斯波高経はいずれも健在です。さらに新田義貞の戦死を機に、尊氏は満を持して征夷大将軍に任官され、室町幕府を開きます。(まだ幕府の政所が京都室町に置かれていないので、室町幕府という呼称はおかしいかもしれませんが。)
 もはやこの時点で南朝方は完全に「死に体」となったといえますが、唯一南朝方が勢いを得たのは、鎌倉執権北条氏の遺児・北条時行が味方についたことでしょう。時行はこれ以後、20年近くに渡って北朝方を苦しめることになるのです。ただ、あの悪名高い高時の子までも味方に加えざるを得なかったこと自体が、南朝方の苦境を表しているともいえますが。
 南北朝時代はまだ始まったばかりですが、この時点で南朝方の公家・武家の多くは敗北を覚悟したものと思われます。この圧倒的に不利な状況から南朝側がどのように戦闘を展開させていくのかというと、彼らは京都に攻め入るのは諦め、むしろ地方を足掛かりに味方を着実に増やしていくという作戦を取るのです。
 具体的には、常陸小田城に入った北畠親房が様々な調略活動を行っていくわけですが、それが果たして功を奏すのか、次回から見ていくことにしましょう。

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