日本人の物語01505【室町/東国/享徳の乱】享徳の乱概観
新章スタートです。「享徳の乱」は関東における戦国時代の始まりとみなす説もあり、かなり重視されるようになって来ました。
先に西国だけの話を進めていましたが、本章では嘉吉元(1441)年9月28日から文明5/享徳22(1473)年6月23日までの東国情勢を見ていきます。この32年間の話をざっと概観しておきましょう。
6代将軍義教の時代に鎌倉公方足利持氏が誅殺され、それを悲観した関東管領・山内上杉憲実は隠居し、鎌倉府の政務は停滞していました。そこに持氏の子・成氏と憲実の子・憲忠が新たに着任するのですが、さっそく両者は対立し、新たな戦「享徳の乱」の火種となります。
享徳の乱の前哨戦「江ノ島合戦」が起こるものの、戦乱は一旦収束します。ところがその後、成氏が憲忠を殺害してしまい幕府に追われる身となります。緒戦に勝利した成氏は、北に敗走した上杉方を追って常陸に向かいますが、そのうちに鎌倉を幕府方に占領されてしまい、帰れなくなってしまいます。やむなく成氏は下総国古河(茨城県古河市)に土着し、それ以降は「古河公方」と呼ばれるようになります。
一方、幕府の支援を受けた上杉一族は古河公方を追い詰めるため、越後(新潟)―上野(群馬)―武蔵(埼玉・東京)―相模(神奈川)に及ぶ「上杉ライン」を構築し、成氏を東国に封じ込めます。上杉一族が主に布陣した場所は五十子(いかっこ:埼玉県本庄市)で、そこは20年以上に渡って鎌倉に代わる関東の政治・軍事の中心都市となりました。
享徳3(1454)年に発生した享徳の乱はなんと文明14(1483)年まで続くので、三十年戦争と名付けてもよいレベルのものです。応仁の乱が11年間ですから約3倍の長さであり、関東は一足早く戦国時代に入ったと評価することもできるでしょう。
なお、成氏の反乱に怒った8代将軍義政は、「もはや成氏は鎌倉公方ではない」とみなし、庶兄・足利政知を関東に送り込みます。その政知はなぜか鎌倉には入らず、伊豆国の堀越(静岡県伊豆の国市)に土着したため「堀越公方」と呼ばれます。この後、古河公方は5代に渡って栄え、堀越公方は2代で滅びます。
約30年続く享徳の乱ですが、戦闘がほとんど起こらず膠着状態に陥っていた時期が非常に長いのです。古河の成氏軍と五十子の上杉軍の睨み合いが続く中、上杉軍では
・山内上杉家の家宰である長尾氏
・扇谷上杉家の家宰である太田氏
が徐々に台頭してきます。前半期は長尾景仲が、後半期は太田道灌が、それぞれ上杉軍を牛耳るようになっていきます。
本章では、膠着状態に陥った上杉軍の内部で徐々に対立が始まり、長尾景春が反乱を起こす直前までを取り上げます。この「長尾景春の乱」が始まる前と後とでは、享徳の乱の対立構造が全く異なるため、章を分ける必要があるのです。
有名な武将がほとんどいない時代ですが、何とかついてきてください。
古河公方と堀越公方、という名は高校時代に覚えさせられましたが、その重要性をいまいち認識できていなかった気がします。
