日本人の物語01287【室町/義持期】日明貿易中断
ある人が「参考文献が書かれているかどうかで、信憑性が一気に変わってきますよね」と述べておられました。そのとおりだなと思います。
本稿は最初からしっかり参考文献を作っておけばよかったと後悔しています。今から遡って作るのはかなり大変そう・・・。
義持が父・義満の政策を次々と否定していった中で、最も重要なのが日明貿易(勘合貿易)の中断でした。
この頃、北九州を本拠とする日本人の海賊「倭寇」が朝鮮や明を荒らし回っており、室町幕府はその取締りに追われていました。これら倭寇の船と正規の遣明使の船とを区別するため、遣明使は「勘合符」と呼ばれる通行証を携帯するよう求められていました。このことから日明貿易を「勘合貿易」とも呼びます。
前述のとおり、義持は応永16(1409)年7月5日に将軍の代替わりを祝う明の使者・周全と接見し、「日本国王」に封じられました。そして義持はその謝恩使節として堅中圭密(けんちゅうけいみつ)という天龍寺の高僧を明に派遣しました。
一見すると、明との関係や外交政策は義満時代のままに引き継がれそうに見えます。
ところが、その堅中圭密の帰国に同行してきた使者・王進(おうしん)は、謁見どころか入洛さえ認められず、応永18(1411)年9月9日に兵庫港からむなしく帰国することとなりました。これにて明との交易は断交となりました。
一体なぜ義持は明との交易をやめたのでしょう。
よく言われるのは、「日本国王として明の皇帝に従属することに屈辱を感じたから」というものです。これを理由に、今も保守主義者が義満をこき下ろして義持を持ち上げたりすることがあります。あるいは、天皇を戴きながら征夷大将軍に過ぎない自分が「日本国王」を名乗る矛盾や、使者を北山第でもてなして京に入れず上手くごまかす危うさ(01267回参照)が嫌だったのかもしれません。その理由は想像するほかありません。
ただし、義持は決して交易によって得られる利益を諦めたわけではありません。というのも、義持は明との貿易が途絶えても朝鮮との交易で唐物を十分に入手できると見込んでいた節があります。なぜなら、応永17(1410)年8月には義満の弔問に来た朝鮮回礼使の梁需(りょうじゅ)を招いた詩会が催され、これに山名時熙ら有力者が参加しているなど、明らかに明国から朝鮮国へのシフトがみられるのです。これら朝鮮との通交窓口は周防守護・大内盛見と九州探題・渋川満頼が担ったようです。
一方、交易の停止を通告された明の3代皇帝・永楽帝(えいらくてい:1360~1424)は怒り、応永20(1413)年には「義持は倭寇を放置している」として、日本への遠征計画を朝鮮国に伝達しています。幸い、この計画は周囲の反対もあって実行に移されませんでしたが、一歩間違えば明との戦争になっていた可能性もあったのです。
朝テレビで「梅雨が再開する」と言っていたのですが、「梅雨が再開」という日本語を初めて聞きました。そんなことあるのですね。
