日本人の物語00382【平安後期】義家と義綱の対立
前述したとおり、後三年の役において源義家は私財を投じて武士たちに恩賞を与えたことから、大いに株を上げ、大変な人気を得ていました。
寛治2(1088)年に、義家は長年務めてきた陸奥守を遂に辞任しました。その後任となったのは、藤原基家(ふじわらのもといえ:?~1093)でした。
陸奥守を務めた後は、位階や官職を昇進させるのが通常です。しかし朝廷は義家のあまりの人気ぶりに、その台頭を恐れ、その後義家に官職を与えないようになりました。
とはいえ、前九年の役のような地方豪族の反乱に備え、従順で使いやすい武士を育てておかなければなりません。そこで朝廷は、義家の弟・源義綱(みなもとのよしつな:頼義の次男:1042?~1132)に目をつけて、こちらを重用し始めます。そのため、義家・義綱兄弟の関係はにわかに悪化するようになりました。
寛治5(1091)年6月。義家・義綱兄弟の間で所領をめぐる対立が発生しました。双方とも兵を準備し、あわや武力衝突という事態が生じます。
このとき、摂政から関白に転じていた藤原師実が、調停のため双方から聴取したところ、どちらからも
「相手が襲撃してくるとの風聞があるので準備しているだけです」
との回答があり、師実はそれ以上何ら有効な措置をとることができませんでした。
結果的に兄弟同士の武力衝突は回避できたものの、何事にも消極的な師実は存在感を発揮できず、政権の中で徐々に埋没していくこととなります。
寛治6(1092)年5月5日。朝廷は、今度は義家の荘園を停止してしまいました。朝廷の「兄・義家を冷遇して弟・義綱を厚遇する」という方針がだんだん露骨になってきています。
寛治7(1093)年8月15日には、陸奥守の藤原基家が大した活躍もできないまま死去しました。その後任に就任したのは、なんと義綱でした。更なる依怙贔屓です。
ちょうどこの年、出羽国で平師妙(たいらのもろたえ:?~1093)が受領・藤原信明(ふじわらののぶあき)を襲撃し、国衙を焼き討ちして財宝を奪うという事件が発生していました。平師妙の乱といいます。
こんなときに賊を検挙することこそ、陸奥守の仕事です。陸奥守に就任したばかりの義綱は、これを平定に出かけ、翌寛治8(1094)年3月8日には見事平師妙の首を掲げて京に凱旋帰国しました。
このように、義綱は徐々に存在感を強めていきます。
