日本人の物語00478【平安末期】篠原の戦い*
倶利伽羅峠の戦いで壊滅的な打撃を受けた平家軍に、更なる追撃が加わります。
寿永2(1183)年6月1日。敗走する平維盛らが篠原(石川県加賀市)に差し掛かったところで、これを追撃しようとする義仲軍が追いつきました。そのまま戦闘となり、義仲軍が圧勝しました。
このとき、平家軍の中で殿(しんがり)という最も危険な任務を務めたのが老将・斎藤実盛でした。実盛は味方が全員逃げた後も、一人とどまって戦い続けました。実盛は次々と敵を倒しながらも、最後に源氏方の手塚光盛(てづかみつもり)に討ち取られました。この手塚光盛は漫画家・手塚治虫の祖先とされる人物です。
戦闘終了後、源氏方による首実検が始まりました。手塚光盛は
「この死体は、大将軍しか身に着けることが許されない錦の直垂を着けていましたが、誰なのか分かりません」
と言って自ら討ち取った首を示しました。義仲は
「これは斎藤実盛ではないか」
と述べつつも、
「しかし、私は幼い頃に実盛を見たが、既に白髪交じりであった。それから何年も経ったはずなのに、髪や髭が全て黒いのはおかしい」
と訝りました。
斎藤実盛と交流のあった樋口兼光が呼ばれました。樋口兼光は、一目見ただけで
「ああ、おいたわしい。斎藤実盛殿です。実盛殿はいつも、『戦場に行くときは老武者と侮られるわけにいかないから髪を黒く染めようと思っている』とおっしゃっていました」
と述べました。
実際に死体の黒い髭を洗ってみたところ白くなり、斎藤実盛であることが判明しました。義仲にとって実盛は、かつて父・義賢が大蔵合戦で討たれた際に、木曽へ逃がしてくれた恩人です。義仲は実盛との思わぬ邂逅に涙を流しました。
後世、松尾芭蕉が篠原古戦場を訪れたとき、
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
(なんと無惨なことか。兜を着けて討ち死にした老将・斎藤実盛の首がかつて検分された場所で、今は秋の哀れを誘うコオロギが悲痛な声で鳴いている)
と詠んだことが知られています。
現在、篠原古戦場には実盛を葬った「実盛塚」や、実盛の首を洗ったという「首洗池」、芭蕉の句碑が建てられているほか、実盛の首を抱いて泣く義仲・樋口兼光・手塚光盛の3人の像があります。



