見出し画像

日本人の物語01634【室町/西国/六角征伐】斯波と朝倉の主従対決

主従対決というと、普通は将軍が主の方を応援して、従者がそれに反して下剋上を狙うものですが、ここでは将軍が従者たる朝倉を応援しています。

 細川勝元が死去したことで管領職は長らく空席となっていましたが、文明9(1477)年12月にやっと畠山政長が就任しました。
 政長は翌文明10(1478)年4月には山城守護を兼ね、幕府からの信頼の厚さを見せつけました。というのも、この頃の山城守護は重職中の重職なのです。
 当時、足利家ですら遠国の荘園からの年貢が滞るようになり、困った幕府はお膝元にして京の直近にある山城国からの年貢に頼ることとしました。つまり山城守護は足利家の年貢が確実に納められるように保証する重要な役割を担っていたのです。
 ところが、山城守護となった政長は河内・大和をめぐる義就との戦いに必死で、山城国内の年貢確保のために動いてはくれませんでした。大御所義政は政長にひどく失望し、山城守護を解任することにしました。
 その後、文明11(1479)年9月、畠山家の庶流である能登守護・畠山義統(はたけやまよしむね:?~1497)と越後守護・越後上杉房定が、政長の領国である越中国に両側から侵攻してきました。政長は困って義政に支援を求めますが、義政は意趣返しのように
「諸国の御沙汰は毎事力法量」(諸国のことは力次第である)
と身も蓋もないことを述べ、実力での領土獲得を黙認してしまいました。
 義政が他国侵略を認めてしまったことで、各国とも歯止めが利かなくなりました。
「じゃあ俺も実力で領国を取り返してよいんだな」
と思ったかどうか分かりませんが、それから間もない閏9月4日、元越前守護・斯波義寛が朝倉孝景・氏景父子を討伐するべく、叔父の義孝(よしたか:1454~?)や甲斐氏・二宮氏とともに越前に下国しました。義寛は東軍方の義敏の子であり、東軍であるにもかかわらず、これまた東軍に属する朝倉を討とうというのです。このような戦いが義政の了解を取れるはずもありませんが、どうやら美濃滞在中の足利義視を味方につけているらしく、旧西軍勢力が背後にいるようです。
 余談ですが、斯波義寛はこの3年前に当たる文明8(1476)年9月14日の時点で、甘露寺親長(かんろじちかなが:1424~1500)と対面して
「近日のうちに朝倉孝景退治のため越前に下向したい」
と語っていた記録があります。「近日」が3年後になってしまいましたが、それほどに越前奪回にこだわっていたようです。
 文明11(1479)年11月1日に義寛と甲斐氏が豊原寺(福井県坂井市)に、11月4日に二宮氏が平泉寺(福井県勝山市)にそれぞれ入部すると、朝倉方の僧たちは次々逃亡していきました。朝倉氏景は反撃すべく、11月21日に甲斐方のいる金津(福井県あわら市)に夜討ちをかけたものの敗北しました。将軍のお墨付きで朝倉に統治されているはずの越前が、あろうことか実力で奪われようとしています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集