日本人の物語01285【室町/義持期】鎌倉公方足利持氏登場
どうも熱中症らしく、頭がぼうっとします。皆さんもお気をつけください。
前述のとおり、応永15(1408)年6月7日に義持は室町第から北山第に移ったわけですが、翌応永16(1409)年12月に義持は北山第から三条坊門邸へと移住しました。あまりに豪奢な北山殿に滞在すると何かと物入りなので、倹約家として有名だった直義や祖父義詮の住んでいた三条坊門邸に移ったのかもしれません。義持の呼び名は「北山殿」から「三条殿」に代わりました。
ところがその2ヶ月後である応永17(1410)年2月、義持は自身の呼び名を「三条殿」から「室町殿」に戻すよう通達しました。義持は「三条殿」になりたくて北山第を出たのではなく、単に父と同じ「北山殿」の呼び名を嫌ったものと考えられます。
5月7日には有力者・斯波義将が死去しました。斯波家の家督は息子の義重に引き継がれたわけですが、義重は伏見宮貞成王の日記に「世のため人のため、穏便の人なり」と書かれるような温厚な人物であり、強引さに欠けていました。恐らく斯波家の実力者が不在となったせいでしょうが、6月9日付けで管領が斯波義淳から畠山満家に交代し、斯波家の権力は削がれていきました。
さらに7月5日には政所執事の伊勢貞行が死去し、義持が徐々に独自色を出す環境が整っていきます。
そうした中で、鎌倉府で不穏な動きがありました。この前年に当たる応永16(1409)年7月22日に鎌倉公方満兼が死去し、12歳の持氏(もちうじ:1398~1439)が家督を継承したのですが、持氏がまだ少年だったことから、叔父・満隆(みつたか:1389~1417)が後見役として存在感を示し始めたのです。
足利満兼とその弟たちは癖のある人間ばかりでした。満兼は隙あらば幕府に反逆を企てるような人物でしたし、篠川公方満直と今回初登場の満隆は犬懸上杉禅秀と組んで満兼から鎌倉公方職を奪うべく画策していました。禅秀は前述のとおり上杉家の中でも庶流の「犬懸上杉」に属する人物で、本家筋である山内上杉憲定から関東管領職を奪おうと画策しています。
つまり12歳の持氏にとって、頼りになる味方は遠く稲村に住む稲村公方満貞だけです。叔父満隆も篠川公方満直も犬懸上杉禅秀も、みんな敵です。関東管領・山内上杉憲定は味方ではあるものの、病気がちで頼りになりません。
応永17(1410)年8月15日。満隆謀反との噂が広まり、持氏は山内上杉憲定の屋敷に逃げ込みました。憲定の仲介によって満隆は謝罪し、持氏は9月3日に御所に戻ることができました。しかし謀反の芽が摘まれたわけではありません。
秋には憲定の病が悪化したため関東管領を辞職し、その後任にはなんと犬懸上杉禅秀が就任してしまいました。禅秀は満隆と組んで、持氏や山内上杉家を失脚させようと企みます。
鎌倉府の登場人物が多くてややこしいですね。「登場人物一覧」とか、系図みたいなものをそのうち作り込めると良いなと思いつつ、なかなか手を出せません。
