見出し画像

日本人の物語01249【室町/義満期】田村庄司の乱

果たして若犬丸は実在するのか、と勘繰ってしまいますね。

 応永3(1396)年2月13日。長らく行方不明となっていた小山義政の遺児・若犬丸が再び挙兵し、祇園城を占領しました。
 今度こそ小山の残党を根絶やしにするべく、2月28日、氏満は鎌倉を出発して古河に向かいます。敵わぬと見た若犬丸は祇園城から脱出して行方をくらましましたが、氏満は古河に留まって若犬丸捜索を指揮します。若犬丸を捕らえるまでは鎌倉に帰らぬ決意のようです。
 その後、若犬丸が田村則義(たむらのりよし)・清包(きよかね)父子を頼って田村荘(福島県田村市)に潜伏しているとの情報が入りました。
 田村氏は平安時代に征夷大将軍に任命されて蝦夷討伐を行った坂上田村麻呂の子孫に当たり、代々田村荘を領有してきた一族です。ただ、田村荘の庄司(しょうじ:荘園の管理人)を務める田村庄司氏と、三春城(福島県三春町)を拠点とする三春田村氏とがいて、どちらも坂上田村麻呂の子孫を自称して対立している状態であり、系図はよく分かっていません。
 南北朝時代が始まると、田村庄司氏が南朝方、三春田村氏が北朝方につき、両者は激しく戦いました。そして今回、若犬丸を匿ったとされるのは南朝方の田村庄司氏です。
 5月27日に古河を出発した氏満は、6月1日に陸奥白河(福島県白河市)の結城満朝(ゆうきみつとも)の館に到着し、ここを拠点として田村軍と戦いました。
 田村を打ち破った氏満は満足し、6月19日に白河を退去して7月1日に鎌倉に到着したと記録されています。田村庄司氏を滅ぼしたことで鎌倉府や結城氏の領地は大いに広がりました。そして若犬丸はというと、またもや行方知れずとなったのです。
 どうも不思議な事件です。前回は若犬丸が小田領に逃げ込んでくれたおかげで、鎌倉府は小田を討伐してその領地を手に入れることができました。今回は若犬丸が田村領に逃げ込んでくれたおかげで、鎌倉府はまたまた田村を討伐してその領地を手にしたわけです。
 歴史家の間では、この事件を「小山若犬丸が田村をけしかけて起こした武力闘争」とみる向きと、「鎌倉府の自作自演」とみる向きとがあります。
 若犬丸のその後については、戦国時代に編まれた『勝山記』に応永4(1397)年1月25日に会津で蘆名詮盛(あしなあきもり)に討たれたとの記述があり、そこでは若犬丸の元服名は「小山隆政」となっていますが、だいぶ後世に作られたものなので信頼できません。
 さらに若犬丸の子である7歳の宮犬丸(みやいぬまる)と5歳の久犬丸(ひさいぬまる)も蘆名氏に捕らえられて鎌倉に護送され、六浦湊(横浜市金沢区)の沖で生きたまま籠に入れられ海に沈められたとの伝説があります。
 宮犬丸・久犬丸の死を描いた謡曲『小山安犬』が小山市内で今も上演されているほか、2人の墓とされる五輪塔が六浦の高台に作られたりしています。若犬丸の人気は今も衰えていないようです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集