日本人の物語01570【室町/西国/応仁の乱】謎多き「南主」
10年以上続いた応仁の乱ですが、その最中にも様々な行事が普通に行われています。
応仁の乱は東軍不利のまま推移していますが、義政は戦時中であることを忘れたかのように通常通りに振る舞っています。
文明2(1470)年3月23日。義政は後花園法皇・後土御門天皇を将軍御所に招いて能を見物しました。招いたといっても、そもそも法皇も天皇も将軍御所に住んでいるわけで、便宜上、将軍御所の一部を「内裏」と定義付けて将軍御所から切り離したに過ぎません。数十メートルの移動距離でしょう。
4月26日には、義政が催した蹴鞠の会に法皇・天皇が揃って参加しました。戦を忘れて娯楽にのめり込んでいると評価することもできますが、さすがに義政もそこまで愚かではないでしょう。恐らく、法皇・天皇と親しい様子を見せつけることで西軍が容易に攻め込めないよう牽制したものと思われます。
義政が朝廷との結び付きを深める中、西軍もまた南朝皇族を招き入れるべく準備していました。5月には、西軍内で南朝皇族の擁立について相談がなされ、西軍方のうち畠山義就だけが反対したとの噂が立ちました。畠山義就の領国は紀伊・河内ですが、そこには旧南朝方の楠木党がおり、あまり南朝を優遇し過ぎると楠木党に領地を奪われるおそれがあると義就は危惧したのでしょう。
その義就も周囲の説得を受けて6月には渋々承諾し、8月にはいよいよ南朝皇族が西軍入りしました。8月26日付けの尋尊の日記『大乗院日記目録』に、「南主が御上洛したらしいとの噂話を聞いた」との記録があるのですが、この「南主」が誰なのかは今もなお分かっていません。小倉宮聖承の末裔との話もありますが、詳細不明です。
この「南主」の話は謎だらけです。普通、せっかく南朝皇族を擁立したのであればそれを大々的に宣言すべきところ、西軍は何も発表しようとしないのです。聞こえてくるのは噂ばかりで、しかも前回は畠山義就が反対、今回は足利義視が反対し、西軍内でも南朝皇族の存在を煙たく思っている者が多いようなのです。
思うに、西軍内でもこの南朝皇族が本物かどうかを測りかねていたのではないでしょうか。南朝皇族といえば、先立って禁闕の変における通蔵主・金蔵主兄弟や長禄の変における自天王・忠義王兄弟が擁立されましたが、いずれも血統不明で怪しげな人物でした。宗全や義視が
「血統がはっきりするまでは発表するまい」
と考え、内密にしたことは大いに考えられます。
9月3日に「南主」は北野社に参詣しましたが、その後も「南主」の存在が明らかにされることはありませんでした。
謎のまま終わるので消化不良な気がします。
