見出し画像

日本人の物語00483【平安末期】82代後鳥羽天皇

 後白河法皇から平家を追討せよとの宣旨をいただいた義仲でしたが、京の住民や公家のみならず、肝心の後白河法皇からの信任も失ってしまうこととなります。その原因は、寿永2(1183)年8月14日、義仲が以仁王の子・北陸宮の即位を主張したことでした。
 これまでも、藤原道長や平清盛といった実力者が天皇の譲位に何かと条件を付けたり勝手な人選をしてしまったりすることはありました。しかしそれは、官職も位階も得て貴族界の頂点に立った人物によるものでした。義仲のように、田舎育ちで無位無官の者が突然都を占領したからといって、すぐさま皇位継承というセンシティブな問題に土足で踏み込んでくるのはさすがに僭越というものでしょう。
 とはいえ、後白河法皇としても、平家とともに都落ちした安徳天皇を引き続き天皇として認めるわけにもいかず、次なる天皇を選ばなければなりません。
 故・高倉上皇の子は4人いました。
・第1子: 安徳天皇
・第2子: 守貞親王(もりさだ:1179~1223)
・第3子: 惟明親王(これあき:1179~1221)
・第4子: 尊成親王(たかなり:1180~1239)
 このうち、建礼門院徳子が産んだのは安徳天皇だけです。平家は都落ちの際、できることならこの4人の皇子を全員連れていきたかったでしょうが、たまたま守貞親王だけを捕まえることに成功したため、安徳と守貞の2人を連れていきました。
 そのため、後白河は残る2人の中から次の天皇を選ぶこととなりました。惟明親王と尊成親王は、いずれも母の身分は低いですが、平家の息のかかっていない皇子ですから有力な候補者です。
 まず、惟明親王の方を後白河法皇が抱きかかえようとすると、ひどく嫌がり泣き出しました。一方、尊成親王の方はすんなりと抱えられ、笑顔を見せました。たったこれだけのことで、後白河法皇は尊成親王を選んでしまうのです。
 8月20日。尊成親王は立太子し、同日のうちに即位する運びとなりました。後鳥羽天皇です。またもや3歳の幼帝です。
 即位とはいっても、本来即位に必要な三種の神器は平家が持ち出してしまっていますし、安徳天皇は退位の儀式を済ませたわけではなく、相変わらず天皇を名乗り続けています。つまり、この日以降、天皇を名乗る幼児が2人同時に在位しているという前代未聞の状況となってしまったのです。おまけに、新たに即位した後鳥羽天皇は三種の神器を持たず、天皇を名乗るには少々心もとない状態です。
 後鳥羽天皇の即位により、後白河法皇と源氏は「何よりもまず、三種の神器を取り返さなければならない」と再認識することとなりました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集