日本人の物語00639【鎌倉前期】86代後堀河天皇
公家が次々と斬首されたことは、当時の人々に相当な衝撃を与えたことと推察されます。
保元の乱において敗北した武士・源為義と平忠正が斬首されたことは極めて異例なこととして話題を呼びましたし、さらに平治の乱では公家・藤原信頼が斬首、治承・寿永の乱では公卿(三位以上の貴族を指す)である平宗盛が斬首され、これも衝撃を与えました。しかし、これらはいずれも陣定(公卿らの会議)で議論された上での決定でした。今回は公家の処刑を一方的に武士が決定しているという点で、前代未聞の事態です。鎌倉幕府は公家が想像していたよりもはるかに過酷な刑を科したのでした。
そして、それ以上の衝撃を与えたのが皇族の処分でした。まずは承久3(1221)年7月9日の仲恭天皇の廃位について見ていきましょう。
話は平家の都落ちのときまでさかのぼります。故・高倉上皇には4人の子がいましたが、平家はこのうち第1子・安徳天皇と第2子・守貞親王を連れて都を落ちていきました。後白河法皇はやむなく高倉上皇の第4子である尊成親王(後鳥羽天皇)を皇位に就けました。
壇ノ浦で安徳天皇が入水したとき、守貞親王は源氏方に捕らえられて無事に京に帰りましたが、平家と行動をともにした皇子として白眼視され、やがて世間から忘れられていきました。
建保の頃(1213~1219年)、側近の女官が
「守貞親王が即位することとなる。準備をせよ」
と言われる夢を見て、これを守貞親王に話しますが、守貞親王は
「そんな訳がない」
と相手にしませんでした。やがて守貞親王は剃髪し、出家してしまいます。
しかし承久の乱を経た今、義時としては仲恭天皇を廃し、新たな天皇を立てなければなりません。後鳥羽上皇の血を引く皇族は避けたいので、自然と目が向くのは後鳥羽上皇の兄に当たる守貞親王でした。その守貞親王が出家してしまっていることから、義時が選んだのは守貞親王の子で9歳の茂仁親王(とよひとしんのう:1212~1234)でした。
7月9日。義時の命を受けた泰時は、仲恭天皇を廃位させ、茂仁親王を即位させました。後堀河天皇です。仲恭天皇の在位期間は3ヶ月足らずで、歴代最短となりました。
9歳の後堀河天皇に政務が務まるわけがなく、院政が必要となります。そこで異例ながら守貞親王に「太上法皇」の称号が与えられました。後に「後高倉」という諡名(おくりな)が与えられるので、「後高倉法皇」と称します。天皇に即位していない皇族が「法皇」を名乗るのは異例の事態でした。
幕府は後鳥羽上皇の荘園を全て没収し、後高倉法皇に献上しました。これ以後、実権を幕府に奪われ形式的なものではありますが。後高倉法皇による院政が始まります。
