日本人の物語01368【室町/義教期】後小松上皇崩御
義教のエピソード、だんだん怖さが増してきます。
永享5(1433)年10月20日、伏見御所に義教の命を受けた庭師たちがやって来ました。義教が求める樹木を採集にやって来たのです。あらかじめ樹木を差し出してほしい旨、依頼があったのでしょう。貞成親王は快く庭師らを敷地に引き入れました。
そこで貞成親王は庭師から恐ろしい話を聞きます。室町第(つまり将軍御所)の新築工事において、献上された梅の枝が一本折れてしまったことを理由に庭師が二人切腹させられたというのです。これを聞いて恐怖した貞成親王は、献上する5本の松の木を護衛させるべく50人の人夫を付き添わせました。
かくも恐ろしい義教ですが、義教は決して「後小松上皇よりも貞成親王を優先させる」という方針を崩しません。貞成親王にとっては恐ろしくも頼もしい味方なのです。
この10月20日の夕方、後小松上皇が崩御しました。ここで問題となるのが、後花園天皇が諒闇(りょうあん)を行うべきか否かです。
諒闇とは、天皇が父母を失った際に喪に服するためしばらく政務を停止することを指します。後小松上皇は天皇にとって養父であって実父ではないので、崇光流を重視する義教・貞成としては「諒闇をやらないでほしい」、後光厳流を重視する派としては「諒闇をやってほしい」と考えるわけです。
というわけで義教も貞成親王も諒闇実施に消極的なのですが、後小松上皇は死に際して
①諒闇は行ってほしい。
②貞成に上皇号を与えると、後光厳流を断絶させることになる。決して行ってはならない。
③伏見宮を仙洞御所としてはならない(つまり貞成を上皇とみなしてはならない)。
④追号は「後小松」としてほしい。
との遺勅を残していました。義教は後小松上皇を嫌ってはいたものの、遺勅とあれば従わざるを得ず、結局諒闇は行われました。なお、追号を光孝天皇の異名である「小松」への加後号としたのは、兄の文徳流から皇位を譲られ、後の全ての天皇の祖先となった光孝天皇にあやかろうとしたためでしょう。
11月23日付けの『看聞日記』では、
「将軍は諒闇に反対していたのに、満済の陰謀で諒闇をやることになった。崇光院が南朝に解放された際、『自分の子孫を皇位には付けない』と誓わされたようだが、それを満済が盾にとるのはおかしい」
との愚痴が記されています。つまり後光厳流支持派は、崇光上皇が解放された際の条件を盾にとった主張を繰り広げており、満済こそがその中心だというのです。
義教は渋々諒闇を認めざるを得なかったことが余程腹に据えかねたらしく、10月27日の後小松院の葬列にも「風邪気味」を理由に参加しませんでした。
義教の根に持つ性格は徹底されていますね。
