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日本人の物語01212【南北朝最末期】第三次小山義政の乱

小山義政の乱では鮎子という悲劇のヒロインがいましたが、芳姫という正室の悲劇についての伝説もあります。これほど様々な話が創作されるとは、本当に義政は地元で人気があったのでしょうね。

 弘和2/永徳2(1382)年になっても、南北朝の動乱が未だ細々と続いていました。
 閏1月。幕府方に偽装降伏していた島津氏久に対し、了俊は懐良・良成両親王が立て籠もる八代(熊本県八代市)を攻撃するよう命じましたが、氏久はもちろん動こうとしません。
 閏1月24日には、河内国平尾(大阪市大正区)で幕府軍・山名氏清と南朝軍・楠木正儀の合戦があったと記録されています。南朝に寝返った山名が再び幕府に戻ってきたことは前述のとおりですが、正儀がいつの間にか南朝方に再度寝返っています。原因も時期も全く不明ですが、恐らく細川頼之の失脚によって正儀は幕府内で孤立してしまい、南朝方に戻るしかなかったのでしょう。この平尾合戦で楠木正儀は大敗してしまいます。これ以降楠木正儀の情報はなく、没年すら明らかではありません。
 そしてこの年の3月22日、小山義政による三度目の反乱が始まります。義政が粕尾城(栃木県鹿沼市)に立て籠もったとの情報を得た鎌倉公方氏満は、反乱が始まったにもかかわらず「誠にめでたい」と喜んだといいます。前回の和睦に納得していなかった氏満は、今度こそ小山を倒せることに喜びを感じているようです。
 これまた、戦闘の詳細は伝わっておらず、日付と場所が分かっているだけです。
4月5日: 長野城(栃木県鹿沼市)で合戦。
4月11日: 寺窪城と櫃ノ沢城(いずれも栃木県鹿沼市)で合戦
 そして4月13日、力尽きた義政は遂に自害しました。小山一族が一斉に切腹して石が赤く染まったため、この周辺は「鹿沼市赤石河原」という地名になっています。一族の多くは死んだものの、義政の嫡男・若犬丸(わかいぬまる:?~1397?)は逃亡し、この後10年以上に渡って鎌倉公方に反逆を続けることとなります。
 義政の最期に関連して、義政の正室・芳姫(よしひめ)の伝説が語り継がれているので紹介しておきましょう。
 義政は祇園城を出て粕尾城に入ると決意した際、死を覚悟し芳姫を離別しました。芳姫は泣く泣く祇園城を去り実家に戻ります。実家に戻ったところで芳姫は、異国からもらった貴重な鎮痛薬が家宝として代々伝えられていたことを思い出し、これを粕尾城に届けようと実家を後にしました。
 足尾山中を歩いていたところで疲れ果てた芳姫は、三左衛門(さんざえもん)という漁師の家に泊めてもらいます。三左衛門の妻が病気で臥せっていたのを見た芳姫が薬を一粒与えると、妻はみるみる回復しました。
 翌朝、芳姫は三左衛門の案内で粕尾城に向かいますが、三左衛門は突然態度を変え、薬を渡すよう要求してきました。これを拒んだ芳姫は揉み合いとなり、遂に三左衛門によって斬られてしまいます。
 芳姫が斬られた地と伝わる大応寺(栃木県栃木市)には芳姫の御堂が建てられ、地元の人々によって懇ろに供養されています。

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