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日本人の物語01586【室町/西国/応仁の乱】蓮如 血染めの聖教

肉付きの面といい血染めの聖教といい、なぜ物騒な伝説が多いのでしょうね。

 前述のとおり、吉崎御坊は文明6(1474)年3月28日、失火により焼失しました。このとき蓮如は慌てて避難し、親鸞直筆の著書『教行信証』の証の巻を部屋に置き忘れてしまいます。屋外に出てから思い出した蓮如がそれを口にすると、弟子の本光房了顕(ほんこうぼうりょうけん:?~1474)が
「私が取って参ります」
と言って、水をかぶって火中に飛び込んでいきました。
 了顕は部屋で『教行信証』を見つけたものの、天井が崩れて出られなくなってしまいます。了顕は短刀で自らの腹をかき切り、『教行信証』を内臓の奥深くに押し込みました。
 その後、焼け跡から発見された了顕の死体の中から『教行信証』は発見されました。血で染まったものの、焼けずに済んだのです。「腹ごもりの聖教」又は「血染めの聖教」などと呼ばれるこの巻物は重要文化財に指定され、今も西本願寺に保管されています。
 蓮如は吉崎御坊でその後も布教活動を続けますが、加賀守護の富樫家とひどく対立するようになりました。ここで加賀の動向を復習しておきましょう。
①6代将軍義教は加賀守護の富樫教家を引退させ、その弟の泰高を後継に据えた。
②義教の死後、管領畠山持国はこの人事を撤回し、教家の子・成春を後任とした。
③次に管領となった細川勝元は泰高を支持し、「成春が北、泰高が南」と国を分け合うこととなった。
④長禄の変で再興した赤松家に北加賀が与えられることとなり、成春は追放処分となった。
⑤宗全は赤松再興に激怒して成春を支援し、その一方で勝元は泰高を支援した。
 このとおり、富樫家では成春(甥)VS泰高(叔父)の対立が起こっていたのですが、勝元に北加賀を奪われた成春は、政界の実力者である勝元と敵対し続けることに限界を感じ、逆にすり寄ることで権益を確保しようと考え、叔父泰高と和睦しました。泰高も和睦に応じ、幕府の仲介で泰高から成春への家督一本化と守護職継承が実現したのです。
 その後まもなく成春は死去し、寛正4(1463)年に泰高が再び家督と守護職を継承したものの、寛正5(1464)年8月に泰高は成春の長男・政親に家督を譲って隠居します。幕府が政親を支持したためでしょう。
 この決定に不満を持ったのが、政親の弟・幸千代でした。応仁の乱に際して政親が東軍に属したのに対し、幸千代は西軍に属して対立します。そして政親は吉崎御坊の一向宗徒と結ぶことで支持を集め、幸千代を追放しにかかったのでした。
 この時期、一向宗の実力は非常に大きく、一向宗を味方につけることが守護大名の勝敗を左右するほどになっていたのです。

戦国大名にとって一向宗を敵に回すのは大悪手ですが、味方につけるのも考えものです。

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