日本人の物語01624【室町/東国/長尾景春の乱】享徳の乱の影響
「長尾景春の乱」というタイトルで連載していましたが、実はまだ享徳の乱も終わってなかったんです。享徳の乱の後半に長尾景春の乱が並行して起こったというわけです。
享徳の乱を書き終えたところで、この戦乱が関東情勢に与えた影響について考えていきましょう。
①幕府の影響力低下
これまでは鎌倉公方が関東を統治していたとはいえ、幕府からの影響力は実に大きいものでした。鎌倉公方持氏が幕府に逆らい始めると将軍義教が速やかに鎮圧軍を繰り出しましたし、関東管領は鎌倉公方よりむしろ将軍に対して忠誠を誓っていました。
ところが、享徳の乱発生以降、幕府は驚くほど関東情勢に無関心になっていました。書状のやり取りこそ多いものの、兵の派遣は一切なく、幕府高官による視察も行われていません。逆に鎌倉府高官が幕府に顔を見せる機会も一切ありません。かつて存在した「京都御扶持衆」と呼ばれる関東在住ながら幕府に直接仕える武将もいなくなりました。
そういえば、2代目古河公方の足利政氏(今後登場予定)が延徳3(1491)年のことを「福徳2年」と呼んでいる書状が現存しています。これは「私年号」と呼ばれるもので、朝廷が定めていない元号を勝手に用いている例であり、朝廷に逆らうつもりで使い始めたのか、はたまた改元の情報が誤って伝わったのか不明ですが、いずれにせよ古河公方府は中央からの独立色が極めて強い政権だったといえます。
②鎌倉府の分裂
かつて、仲が悪かったとはいえほぼ毎日顔を合わせていた鎌倉公方と関東管領は、古河(下総国)と五十子(武蔵国)に分裂してそれぞれ別々の領地を治めるようになりました。都鄙和睦によって和解したとはいえ、またいつ争い始めるか分からない状況であり、火種がくすぶっているといえます。
③鎌倉の没落
公方が古河に移ったままとなり、かつて関東の中心地であった鎌倉はひどくさびれていきました。公方方の古河や上杉方の五十子はそこそこ栄えていたそうですが、かつての鎌倉ほどではなかったでしょう。
鎌倉の没落は、関東の没落そのものといえます。この後、戦国時代に後北条氏が小田原を拠点とすることで、関東の中心地は小田原へと移っていきます。
結局、都鄙和睦は関東に長期的な平和をもたらすものではなく、後述するとおりすぐに次の戦乱「長享の乱」が始まることとなります。その長享の乱も18年間続いて一旦収束するものの、それから秀吉による天下統一まで戦争はやみません。
結局、関東においては享徳の乱勃発こそが戦国時代の始期といってよさそうです。
そういえばこの時代に起こる戦乱には名前がありますが、戦国時代全般に起こる戦乱に総称みたいなものはありません。あえていうなら「戦国時代」という名称自体がその総称でしょうか。
