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日本人の物語00428【平安後期】清盛、公卿となる

 平治の乱について、敗者たちのその後を一通り見てきました。そろそろ政治史の話題に戻りましょう。
 これまで、
・信西派: 信西、平清盛
・信頼派: 藤原信頼、源義朝
・二条親政派: 藤原経宗、藤原惟方
の3派が三つ巴の争いを演じていたわけですが、平治の乱により信頼派が没落しました。次に二条親政派が失脚する出来事が起こります。
 後白河上皇には、日頃、桟敷から市井の様子を眺める習慣がありました。気軽に出かけることのできない上皇にとって、数少ない楽しみだったのでしょう。ところが、平治2(1160)年1月6日、藤原経宗・惟方が、後白河への嫌がらせのために桟敷席に釘を打ってこれを封鎖してしまったのです。
 後白河上皇は怒りますが、側近の信西も信頼も既に死んでしまいましたから、頼れる相手は平清盛しかいません。改元後の永暦元(1160)年2月20日、後白河は清盛を呼び、
「経宗、惟方の2名を追捕せよ」
と泣きながら命じました。まるで子供のようです。
 清盛は2名を即座に逮捕し、上皇の面前で拷問した上で、経宗は阿波、惟方は長門へそれぞれ配流となりました。こうして二条親政派の最有力者が不在となりました。上皇の命令とはいえ、武士が公卿を拷問するとは前代未聞の珍事でした。
 同年6月20日。公卿らがあっと驚く人事がありました。平清盛が正三位に昇進し、公卿となったのです。武家から史上初の公卿入りです。後白河上皇は清盛をそれほどまでに信頼したということです。
 これをもって、平氏は「平家」と呼ばれるようになりました。源氏を「源家」とは言わず、平氏を「平家」というのは、平家が公卿だからなのですね。
 清盛は、さらに後白河との関係を深めていきます。清盛は同じ平氏一門の娘・時子(ときこ:1126~1185)を妻に迎えていたのですが、その時子の妹・滋子(しげこ:1142~1176)が後白河上皇に見初められたのです。滋子は後白河のもとに入内します。
 そして翌永暦2(1161)年9月3日。滋子は後白河の第7皇子・憲仁親王(のりひとしんのう:後の高倉天皇:1161~1181)を出産します。平家一門は後白河との関係を深化させることで安泰を図ったのです。

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