日本人の物語01179【南北朝末期】春日神木事件 大嘗会延期
「放氏」という処分がどんなものか、現代人には非常に分かりにくいんですが、果たして伝わるでしょうか・・・。
大乗院と一乗院はともに興福寺の塔頭(付属の寺院)で、両者の仲は険悪でした。
春日神木入洛事件の前年に当たる建徳元/応安3(1370)年の6月に、大乗院の門主を務めていた教尊(きょうそん)が廃され、その甥の教信(きょうしん)が門主に任命されていました。教尊派はこの人事に納得しておらず、大乗院の内部で紛争が生じました。
一方、一乗院の門主である実玄(じつげん)は、大乗院の内紛を好機として戦闘準備を始めていました。
興福寺の僧兵たちはこうした抗争に嫌気がさし、教信・実玄双方を追放するよう朝廷に求めました。ところが朝廷がなかなか動こうとしなかったため、僧兵は不満を持って強訴を起こしたというわけです。
建徳2/応安4(1371)年12月5日。朝廷は僧兵らに妥協して、実玄・教信双方の職を停止すると決定しました。しかし追放ではなく門主の地位を剥奪するだけの決定であったため、僧兵はなおも強訴をやめず、エスカレートさせます。
12月11日。興福寺は次なる一手として、後光厳上皇の側近である柳原忠光・広橋仲光(ひろはしなかみつ:1342~1406)を放氏処分としました。放氏(ほうし)とは、興福寺が意に沿わない藤原氏を追放するもので、この処分を受けるともはや藤原一族とはみなされません。
朝廷から受けた官職や位階は、それぞれが特定の氏族に属することを前提として出されたものですから、藤原一族でなくなった者は宮殿での出仕ができず、つまり仕事ができなくなるわけです。側近を失った後光厳上皇は手足をもがれた状態となりました。
さらに12月17日、僧兵らは柳原忠光・広橋仲光の宿所に神木を放り込み、居住できなくしてしまいます。
結局、興福寺との交渉は容易には妥結できず、12月19日に予定されていた後円融天皇の大嘗会(即位式)は延期となりました。これ以降、神木を帰座させるための交渉役は、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)である二条良基が務めることとなりました。
氏長者とは、その氏に属する者全員の位階を取りまとめて申請する役割を担っており、その権力は相当なものです。ちなみに源氏についても、清和源氏・宇多源氏・醍醐源氏など様々な系統の源氏がいますが、たった一人の「源氏長者」が全ての源氏を取りまとめる役割を担っています。徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)から江戸幕府を開く(1603年)までの間、源氏長者になるために工作していたことは有名です。
二条良基は興福寺と交渉し、翌年1月22日には教信・実玄をいずれも流罪と決しましたが、興福寺の要求がエスカレートしたためなかなか妥結せず、結局春日神木が帰座するのは文中3/応安7(1374)年12月17日のことでした。大嘗会は天授元/永和元(1375)年11月23日にずれ込み、本来の予定から約4年延期となりました。この後も春日神木をめぐる揉め事は頻繁に起こります。
