日本人の物語00154【古墳】29代欽明天皇*
さて、今回から第29代欽明天皇の時代に入ります。
欽明天皇は、古事記によると継体天皇25(531)年に、日本書紀によると宣化天皇4(539)年に、即位します。欽明天皇がさっそく対応を迫られたのは、朝鮮半島の外交問題でした。
継体天皇の時代に近江毛野が任那経営に失敗したことが尾を引き、朝鮮半島への影響力を喪失してしまったわけですが、その後政府内では
「そもそも百済に任那4県を与えたことが間違いだった」
との意見が支配的になり、任那4県割譲を決断した大伴金村の責任を追及する声が上がりました。
欽明天皇元(539)年9月。大伴金村は病と称して出仕しなくなりました。失脚したということでしょう。
そもそも大伴金村は、継体天皇の時代に最も影響力のある政治家でした。天皇が代替わりして、新天皇にとっては邪魔な存在となったものと思われます。
欽明天皇5(543)年。任那が新羅の侵入を受けたため、再び新羅討伐軍を派遣することになりました。ここで派遣されたのは、
・大伴磐(おおとものいわ)
・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)
の2人でした。いずれも、大伴金村の子です。危険な派遣部隊を命じられるとは、やはり大伴氏の地位が下がったためではないでしょうか。
この大伴狭手彦については、有名な悲恋伝説があります。
大伴狭手彦の恋人だった松浦佐用媛(まつらさよひめ)が、鏡山(佐賀県唐津市)の頂上で領巾(ひれ:スカーフ)を振りながら見送っていたのですが、加部島(かべしま)で七日間も泣きはらした末に、そのまま石になってしまったというのです。
泣きはらしたらなぜ石に変わるのか、科学的な説明は全くつきませんが。
この佐用姫伝説は日本三大悲恋伝説の一つと言われています。(ちなみに日本三大悲恋伝説の残る二つは、羽衣伝説と竹取物語だそうです。)現在、加部島には「佐用姫神社」があり、境内に「望夫石(ぼうふせき)」と呼ばれる石があります。これこそが、石になってしまった佐用姫だというのです。さらに鏡山の山頂には佐用媛の銅像も建立されています。
また、唐津市観光協会のマスコットキャラクターは「佐用姫」だそうです。悲恋伝説がゆるキャラになって観光化するとは面白いですね。

