日本人の物語01597【室町/西国/応仁の乱】大乱終結
なんという地味な終わり方なのでしょう。応仁の乱が大規模な戦でありながら、ドラマや映画のネタになりづらい理由がよく分かります。
文明9(1477)年11月11日。西軍の武将が一斉にそれぞれの領国に帰国していきました。土岐成頼は美濃に、大内政弘は周防に、そして西軍総大将だった足利義視は土岐成頼・斎藤妙椿を頼って美濃に退去し、息子とともに承隆寺(岐阜県岐阜市)に住み始めました。この息子というのが後に10代将軍に就任する足利義材(あしかがよしき:1466~1523)なのですが、その流浪の人生については後でじっくり紹介する機会があるでしょう。
乱がようやく終結し、後土御門天皇は室町御所を出て久しぶりに内裏に戻りました。
乱の終結は西軍の解体(西軍武将の領国への帰国)によるものだったのですが、ほとんどの武将が戦をやめて領国経営に集中しようと考えて帰国したのに対し、畠山義就だけは新たな戦乱を求めて河内に出陣した感があります。
11月20日。幕府によって戦乱収束を祝う天下静謐(てんがせいひつ)の宴が行われました。この宴の席で、
「土御門の内裏が焼けずに残って良かった」
と述べた伝奏・広橋兼顕(ひろはしかねあき:1449~1479)に対し、日野富子が
「最初からそうならないよう、大内左京大夫(政弘)と申し合わせていたのだ」
と語ったとの記録があります。これまた、「富子は密かに西軍と通じていた」という説の根拠に用いられる話ですが、戦時中に「内裏を傷つけないようにしよう」という程度の申し合わせが両軍でなされても不思議ではなく、通謀の証拠とまでは断定できないでしょう。
こうして応仁の乱は、事実上は東軍方の勝利であるものの、どちらを勝利者ともしない「和睦」という形で収まりました。主な武将が戦死することもなく、戦後に罪に問われた守護もいませんでした。
しかし、乱の前半期は洛中を舞台とした市街戦でしたし、寺や屋敷に放火するゲリラ作戦が多用されたこともあり、京はひどく荒廃しました。荒れ果てた京の町を見て嘆いた細川成之の家臣・飯尾常房(いのおつねふさ:1422~1485)はこんな歌を詠みました。
「汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」
ちなみに平成期に内閣総理大臣を務めた細川護熙は、
「私どもの自宅は京都にありましたので、先の大戦では多くの貴重な茶器を失ってしまいました」
と述べ、先の大戦とは何かと聞かれると「応仁の乱」と答えるという持ちネタを持っていたそうです。
本章を終える前に、応仁の乱が後世に与えた影響についてまとめておきましょう。
第二次世界大戦では京都への空襲はなかったからこそ成立するネタですね。
