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日本人の物語00785【鎌倉末期】内野の戦い

 元弘3/正慶2(1333)年5月7日。いよいよ足利高氏が反乱軍として六波羅軍と戦い始めます。この日、六波羅を攻撃したのは足利高氏・赤松円心・千種忠顕の連合軍でした。
 まず赤松軍が東寺(京都市南区)から、千種軍が竹田・伏見(京都市伏見区)から京へ乱入して来ました。そして足利軍は例の鳩を追いかけて来たわけですが、その鳩は大内裏の跡である内野(京都市上京区)と呼ばれる場所に止まったため、足利軍は内野へと攻め入りました。内野には平安時代までは大内裏があったのですが、その後移転され、この頃内野には神祇官庁と呼ばれる役所があったようです。ちなみに現在は内野児童公園となっており、かつて宮殿があったことを示す石碑があるだけです。
 六波羅探題は、6万騎の兵を3つに分けてそれぞれ足利軍・赤松軍・千種軍に対応させますが、特に主力軍である陶山義尚・河野通盛を足利軍に対応させるべく内野へと送り込むこととしました。六波羅にとっては足利軍が最大の脅威だったのでしょう。
 内野では、当初は両軍とも敵を警戒して遠くから矢を射合う慎重な戦いぶりでしたが、そのうちに足利軍の中から一騎打ちを志願し名乗りを上げる者が現れました。
「我こそは足利家家臣、設楽五郎(したらごろう:?~1333)である。我こそはと思わん者は手合わせ願いたい」
 すると六波羅勢の中から、年50ほどの老武者が現れ、
「我が名は斎藤玄基(さいとうげんき:?~1333)。私は多年、奉行職の末席を汚してきたゆえ、文筆の徒と侮る者もいるであろうが、先祖代々武略の道を究めた者である。いざ!」
と名乗って組み合いとなりました。
 2人は馬に乗ったまま組み合い、どうと落ちました。「どうと落つ」とは軍記物語によく出てくる表現で、馬から落ちるときの擬音語です。
 やがて力の強い設楽が上になって、斎藤の首をかっ切りましたが、一方斎藤もまた下から設楽の体を突き上げるように刺しました。2人とも互いに組み合った手をほどくことなく、そのまま戦死してしまいます。
 2人の一騎打ちにより、戦いは一気に展開し始めます。足利軍から次なる武者が名乗りを上げました。
「足利殿の家臣、大高重成(おおだかしげなり:?~1362)と申す。先日の合戦で功をなしたという陶山殿と河野殿はおられぬか。太刀を切り結ぼうではないか」
 なんと大高は、大将格である陶山義尚・河野通盛との直接対決を望んだのです。
 このとき陶山義尚は赤松軍との戦いを支援するため東寺に向かっていましたが、河野通盛は陣内にいました。河野通盛は「ここにあり」と叫び、一騎打ちを買って出ます。

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