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日本人の物語01556【室町/西国/応仁の乱】一条家の土佐下向

公家から戦国大名に発展したのは、土佐の一条家、飛騨の姉小路家、伊勢の北畠家くらいでしょうか。

 話があちこちに飛んでしまいますが、ここで四国の状況を見ておきましょう。
 大規模な戦乱が発生したことで、京の街では頻繁に火事が起こるようになりました。前関白・一条教房(いちじょうのりふさ:1423~1480)は、戦乱を避けるために土佐国の幡多中村(高知県四万十市)に疎開することを決めました。ちょうどそこに一条家の荘園があったためですが、もちろん教房にとっては土佐どころか四国に渡るのも初めての経験でした。
 その一条教房を出迎えたのが土佐の有力国人・長宗我部文兼(ちょうそがべふみかね)です。
 長宗我部家は秦の始皇帝(B.C.259~B.C.210)を先祖に持つ一族といわれています。5世紀に秦の始皇帝の子孫である弓月君(ゆづきのきみ)が日本に渡来し、その子孫の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子の側近として活躍しました。その子孫の秦能俊(はたよしとし)が、12世紀に土佐国の長岡郡宗我部郷(ながおかぐんそがべごう:高知県南国市)に移住し、「長宗我部」を名乗るようになったそうです。この秦能俊改め長宗我部能俊については、岡豊城(おこうじょう:高知県南国市)を築城してそこを拠点にしたとか、
「天皇からいただいた盃に酢漿草(かたばみ)という草の葉が浮かんでいて、それを飲み干したことから酢漿草を家紋とした」
といった伝説もあり、姓と城と家紋を作ったまさに長宗我部家の祖とみられています。
 この能俊を初代として、15代目に長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)という人物が当主となります。これは戦国時代に四国を統一したあの教科書にも載っている有名な長宗我部元親とは同名の異人で、室町前期の人物です。元親は京とのパイプを重視し、一条経嗣を訪ねて言葉遣いや衣食の作法について指導を受けたと『土佐物語』は記しています。
 この15代元親の代に一条家とのつながりができたためでしょう。一条経嗣の孫に当たる教房が、戦乱を避けるため土佐に疎開したいと言い出したわけですから、元親の子である16代当主・長宗我部文兼としては助けないわけにいきません。文兼は、かねてより元親が
「一条殿の御厚意は七生までも忘るべからず」
と遺言していたことから、一条教房を兵庫港まで迎えに行き、岡豊城にわざわざ作った御座所に招きました。その後、教房は領地である中村に移りましたが、文兼は
「前関白である一条教房卿こそ、土佐の国司にふさわしい」
と述べ、周辺の国人たちの賛成も得て中村城の一条教房を崇めるようになりました。
 一条教房は正式に朝廷の許しを得たわけではありませんが、事実上の土佐国司としての権力を行使し、長宗我部家はその筆頭家臣のような立場になりました。本来の土佐守護たる細川勝元は、長宗我部家からしっかりと献金を受けていたため、何となくこの状況を黙認していたようです。

長宗我部元親も歴史上に二人いるんですよねえ。

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