日本人の物語00673【鎌倉中期】宗尊親王追放 上皇の怒り
『増鏡』によると、宗尊親王が鎌倉を追放された理由は、
「世を乱れらんなど思ひよりける武士の(中略)宮の御気色あるやうにいひなしけるとかや」
(世を乱してやろうと思っていた武士たちが、宗尊親王にもその気があると考えてその旨を言いふらした)
ということだそうです。宗尊親王が北条氏から実権を奪おうと考えていたというわけです。
それが事実かどうか分かりませんが、京に送還された宗尊親王は、
「なほたのむ 北野の雪の あさぼらけ あとなきことに 埋づもるる身も」
(北野の社の朝ぼらけの、足跡もない清い雪に埋もれている我が身よ)
と詠みました。つまり、北野天満宮に祀られている菅原道真に自らをなぞらえ、無実の罪に埋もれてしまった我が身を嘆いているわけです。
後嵯峨上皇は、宗尊親王を義絶してしまい謁見を許さず、幕府のとりなしで文永3(1266)年12月にようやく父子の対面が実現されました。上皇は宗尊親王にひどく怒っていたということです。幕府との友好関係を維持したい上皇にとって、宗尊親王が幕府を怒らせるような何かを仕出かしたということでしょう。
一方、公家の日記などによると、京では
「宗尊親王の正室・近衛宰子と松殿良基が不倫を起こした。それが将軍交代の原因らしい」
との噂が流れていたことが分かっています。妻が不倫したことと夫が謀反を画策したこととは、まるで別の出来事であり、説明がつきません。
例えばこんな推理があり得ます。宗尊親王は妻の不倫を知って、妻を離縁しようとしたのではないでしょうか。それを上皇に掛け合ったところ、上皇はひどく立腹し、将軍位剥奪という結果になったのではないかというのです。吾妻鏡ではそのような不祥事をそのまま記すのは忍びなく、奥歯に物が詰まったような書き方しかできなかったというわけです。
真相は闇の中ですが、今後の研究の成果を待つこととして、とりあえず歴史を先に進めましょう。
文永3(1266)年7月24日。宗尊親王の子の惟康王が将軍となりました。僅か2歳での征夷大将軍宣下は前代未聞です。
その後、文永7(1270)年には惟康王は源姓を賜与されて臣籍降下し、「源惟康」を名乗ることとなりました。ところが蒙古襲来後の弘安10(1287)年には親王宣下を受けて皇族に復帰しています。「惟康王」から「源惟康」となり「惟康親王」となり、呼称がコロコロ変わったわけですが、一般的には「惟康親王」と呼びならわすこととなっています。
幕府は、源姓と皇族のどちらがより幕府の権威を高められるのか、あれこれ模索していたのでしょう。
