日本人の物語01513【室町/東国/享徳の乱】成氏、古河に入る*
室町中期の関東情勢は実に複雑怪奇な上、史料不足で詳細がはっきりしません。
ここから「享徳の乱」の戦闘の詳細を見ていきますが、史料不足のため正確な戦況はよく分かっていません。いつどこで誰と誰が戦い、どちらが勝利したかが分かる程度です。
享徳4(1455)年1月6日。成氏の命を受けた一色直清・武田信長軍が相模国島河原(神奈川県平塚市)で上杉軍(扇谷上杉持朝・長尾景仲・太田道真ら)と衝突しました。恐らく成氏方はしっかりと準備した上で憲忠謀殺を敢行したでしょうから、突然不意打ちを受けた上杉一族とはまともな勝負になりません。上杉軍は敗北し、その主力は伊豆国三島(静岡県三島市)や武蔵国河越(埼玉県川越市)に逃亡しました。河越に到着した長尾景仲は、上野国の軍勢などを動員して再起を図ります。
長尾景仲は、庁鼻和上杉憲信と扇谷上杉顕朝(おうぎがやつうえすぎあきとも)の軍勢に加わってもらい、成氏のいる鎌倉へと向かいました。一方、成氏は自ら出陣してこれを迎え討ちます。両軍は
・1月21日に武蔵国高幡(東京都日野市)
・1月22日に分倍河原(東京都府中市)
でそれぞれ衝突しましたが、これまた成氏方の勝利に終わりました。
上杉方が受けた損害はあまりに大きなものでした。
・庁鼻和上杉憲信は戦死
・扇谷上杉家の当主である顕房は深手を負って逃亡先の武蔵国夜瀬(東京都三鷹市)で自害
・犬懸上杉憲秋は池亀(東京都大田区池上)で(別の説によると高幡で)自害
・山内上杉家の重臣である大石憲儀(おおいしのりよし:?~1455)が戦死
・その弟の大石重仲(おおいししげなか:?~1455)も傷が元で3日後に死去
さんざんな結果となり、敗れた長尾景仲は小栗城(茨城県筑西市)へと逃亡しました。ここは小栗判官(01321回参照)こと小栗助重が城主を務めつつ、千秋上杉定頼が客将として入っている城であり、鎌倉から十分離れているため安全だと思ったのでしょう。
勝利の勢いに乗った成氏は、上杉方に決定的な打撃を与えるべく再び自ら出陣しました。そして鎌倉を出て北上し、2月18日に武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に着陣しました。武蔵国内で味方を募った成氏はじわりじわりと小栗城に近づき、3月3日に下総国古河(茨城県古河市)に入ることとなります。この古河こそが、成氏の生涯に渡っての拠点となる場所でした。
享徳の乱、最初は圧倒的に成氏方が有利な状態で始まりました。これが30年ダラダラ続きます。

