日本人の物語00824【建武期】万里小路藤房の遁世
建武の新政が暗礁に乗り上げている中、後醍醐天皇に直言する側近が現れました。あの笠置山中を天皇と共にさまよった万里小路藤房です。
ある日、宴のさなかに出雲守護の塩冶高貞から天皇に駿馬が献上されました。洞院公賢がこれを吉兆であると述べたのに対し、藤房は逆に凶兆であると論じました。藤房は、今の政治には次のような問題があるというのです。
・為政者は諫言を聞き入れるべきであるのに、それを怠っている。
・武士たちの多くが未だに恩賞にあずかっていない。
・大内裏造営のために重税を課している。
・倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ不当に恩賞が少ない。
これを聞いた天皇は不快そうな顔になり、そのまま宴は中止されたといいます。
この後も藤房は、武家への恩賞が不十分であることを天皇に訴え、
「もし武家の棟梁が不満を持って政権から出ていけば、そこに多くの不満分子が集まってしまいます」
と再三述べますが効果がなく、遂に職を辞することを決めました。
ある夜、参内した藤房は天皇にいつも通り中国の古典などを講じ、退出しました。そしてそのまま宮殿を出て北山の岩蔵(京都市左京区)というところに籠もり、出家を遂げました。建武元(1334)年10月5日のことでした。
藤房がいなくなったことを知った天皇は驚き、
「居所を探し出し、再び政道を補佐させよ」
と父の宣房に命じます。宣房は藤房のいる岩蔵へ急ぎましたが、間一髪、その日の朝に藤房は旅に出たとのことでした。
宣房が部屋を見回すと、破れた障子の上に一首の歌が残されていました。
「住み捨つる 山を浮世の 人とはば 嵐や庭の 松にこたへん」
(私が住み捨てたこの寺を、俗世の人が訪ねてきたならば、ただ庭の松に吹く嵐がその人に応対することだろう)
もはや息子に会うことは叶わないのかと、宣房は涙を流し空しく岩蔵を後にしました。
こうして、後醍醐天皇の信頼を一身に受けたはずの万里小路藤房は、そのまま行方知れずとなりました。没年すら明らかではなく、この後彼がどこでどう過ごしたかは謎に包まれています。
