日本人の物語01587【室町/西国/応仁の乱】蓮如 富樫との対決
富樫政親と幸千代が争いました、と述べた時点で「幸千代というのは幼名だろうから、元服前に死んだか失脚したんだな」と推理でき、どちらが勝ったか分かってしまいますね。
富樫政親と幸千代の兄弟対決は、政親が吉崎御坊の一向宗徒と結んだことで一挙に有利になりました。苦境に陥った幸千代は、文明6(1474)年7月26日に吉崎に攻め入って2千人の戦死者を出すほどの被害を与えました。しかし吉崎御坊の力も相当なもので、11月1日には逆に幸千代丸の拠点・蓮台寺城(石川県小松市)を襲撃し、加賀から駆逐してしまいます。
吉崎御坊は蓮如のカリスマ性によって強い団結力を見せていましたが、その蓮如自身は戦を望んでいませんでした。蓮如の側近に下間蓮崇(しもつまれんそう:?~1499)という僧がおり、実際にはこの蓮崇が戦闘を指揮していたのです。ちなみに下間氏は親鸞が下妻(茨城県下妻市)に庵を構えた時に、これを記念して弟子の蓮位(れんい)が下間姓(漢字表記は異なりますが)を名乗ったことに由来しています。
吉崎御坊との同盟により弟との内紛に勝利した政親は、徐々に一向宗徒の力を恐れるようになり、対立が生じるようになりました。文明7(1475)年3月には加賀の一向宗徒と政親軍との間で戦いが起こり、蓮如はこれを止めようと奔走しますが、下間蓮崇が来客を蓮如に取り次ぐことなく「上人は戦いを求めている」などと言って宗徒を煽動するので、戦いはますます過熱していきます。
もはや戦闘集団と化した吉崎御坊の宗徒らに嫌気がさした蓮如は、8月21日に突然吉崎から退去し、小浜、丹波、摂津を経て出口(大阪府枚方市)へと行き着きました。この戦を止めるには、自分が出奔するほかないと思ったのでしょう。側近の下間蓮崇は同船を拒否され、浜辺で泣き叫んだと伝えられています。その後、虚言を用いて戦になるよう誘導していたことが露見し、蓮崇は破門されてしまいます。
蓮如は文明10(1478)年春に出口から山科(京都市山科区)に移り、山科本願寺の建設を開始しました。その後、石山(大阪市中央区)、教行寺(大阪府高槻市)など数ヶ所を転々としますが、最後は山科で84歳の生涯を終えました。
一向宗では肉食と妻帯が許されていますが、蓮如はなんと5人の妻との間に27人の子をもうけています。一夫多妻ではなく、妻が死去するたびに新たな妻を娶っているのです。その5人の妻を順番に紹介しましょう。
①如了:蓮如が28歳頃に結婚して四男三女を産み、蓮如41歳のときに32歳で死去。
②蓮祐(れんゆう:1438~1470):如了の妹。三男六女を産み、蓮如56歳のときに33歳で死去。
③如勝(にょしょう:1448~1478):一女を産み、蓮如64歳のときに31歳で死去。
④宗如(そうにょ:?~1484):姉小路昌家(あねがこうじまさいえ:?~1469)の娘。一男一女を産み、蓮如70歳のときに死去。
⑤蓮能(れんのう:1465~1518):畠山政栄の娘。五男二女を産み、蓮如の最期を看取る。
なんと最後の子は蓮如が83歳のときの子で、その胆力には目を見張るほかありません。
27人子供がいるということ自体は歴史上の人物としてはあり得ますが、蓮如は一夫一妻制を守っていたにもかかわらず(同時に二人の妻を持っていたわけではないにもかかわらず)これだけの子がいたわけで、異様ですね。
