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日本人の物語01101【南北朝中期】龍門山の戦い 大将の戦死

「大将が戦死したのに勝ち戦」という例は他に聞いたことがありません。もしご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 正平15/延文5(1360)年2月13日。義詮は3万騎を住吉・天王寺にまで繰り出して、金剛山に圧力をかけます。畠山国清ら20万騎も河内で南朝軍と対峙します。
 畠山軍は、南朝拠点である観心寺にじわりじわりと近づき、3月17日には金剛寺を焼き討ちしました。南朝方からは降伏する者が次々と出てきて、幕府方は
「これなら観心寺もすぐに陥落させられるだろう」
と自信を深めました。
 ところがこれ以降、狭い山間の土地での野戦は数の有利を生かせず、毎日死傷者が増えるばかりでした。幕府軍の兵たちは徐々に疲れてきて、規律を守らず神社仏閣から略奪する者が現れ始めます。こうなってはもはや神仏の加護も得られません。
 そこに、南朝方の四条隆俊(しじょうたかとし:?~1373)が紀伊国の軍勢3千騎を率いて最初ヶ峰(和歌山県紀の川市)に陣を布いたとの情報が入り、4月3日、畠山国清は弟の義深(よしとお:1331~1379)を大将とする3万騎を最初ヶ峰に送り込みました。
 義深軍を迎え討ったのが四条隆俊軍の大将・塩谷高貞(しおのやたかさだ:?~1360)です。塩谷高貞は高師直のせいで讒死した塩冶高貞(えんやのたかさだ)と同族のようですが、よくわかっていません。この頃の苗字には「石塔」「石堂」など漢字表記揺れが多く、「塩谷」「塩冶」も同じ苗字の異字である可能性が高いのです。「しおのや」という読み方も正確かどうか分かりません。
 塩谷高貞は最初ヶ峰の近傍にある龍門山に塀や櫓を作って簡易な城を築いていました。義深軍はその龍門山に、盾も用意せず、作戦も立てず、ただ数の有利を頼みに猪突猛進してしまいます。
 一方、塩谷高貞軍は弓の使い手千人を待機させており、駆け上がってくる義深軍に対して雨のごとく矢を降らせます。狭い場所なので矢が外れることはありません。義深軍はあっという間にやられて、ひたすら逃げるほかありませんでした。
 塩谷高貞はこれを追跡しましたが、深追いしてしまい、馬が矢で射られ槍で突かれたために転び、起き上がろうとしたところにさらに矢を受けて討たれてしまいます。
 こうして龍門山の戦いは、南朝軍が大将・塩谷高貞を失うという打撃を受けつつも、南朝の勝利に終わったといってよいでしょう。大将を失ったのに勝ち戦とは珍しい話です。
 義深軍が逃亡した後には、武勇の者として有名な禰津小次郎(01049回参照)の太刀が捨てられていました。禰津小次郎といえば
「関東8ヶ国に、私が禰津だと知って戦おうとする者はいないだろう」
などと平素から自慢気に語っている者ですが、そんな人物までもが武器を置いて逃げ出すほどの負け戦だったわけです。
 現在、紀の川市内には塩谷高貞の首塚があり、その近辺の地名は「塩塚」というそうです。

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