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日本人の物語01342【室町/義教期】義円還俗

このあたり、満済の活躍ぶりがすごいです。満済を「室町幕府を牛耳ったフィクサー」と見る人もいるようですが、日記を見ると将軍に振り回されて奔走しているようにも見えます。

 義持の死から一夜明けた応永35(1428)年1月19日。幕府における義円(後の義教)の受け入れ準備が始まりました。
 義円は准三后のほか、大僧正など僧としての最高位を持っているものの、無位無官です。法体のままでは官職も位階もままならないので、満済は万里小路時房と
「今すぐ義円を還俗させたい」
と話し合いますが、時房は否定的です。護良親王の凶例があるからというのです。
 確かに護良親王は還俗してすぐに征夷大将軍となった結果、尊氏と対立して悲運の最期を遂げることとなりました。そうした例もあるから、多少間を空けたほうがよいというわけです。やむなく満済は、還俗を急がず当面は「准三宮義円」の名で文書を発給することを決めました。
 2月24日。後小松上皇は、義持の葬儀に参列した廷臣に
「30日間は喪に服し、院参しないように」
と命じました。確かに「葬儀に参列した後は当面宮殿や院に出仕できない」というルールはありましたが、後小松上皇はその適用範囲を突如として拡大したのです。万里小路時房は日記に「末代の作法、毎事非法の令か」と憤慨を記しました。
 後小松上皇のこの決定は、義持の葬儀を重視する姿勢を示して将軍に敬意を表するためだったのか、はたまた義持と仲の良い公卿を院から締め出して嫌がらせをしたかったのか、不明です。ただ、この後の後小松上皇の振る舞いを見ると、嫌がらせ目的ではないかと勘繰りたくなります。
 というのも、3月になって幕府が新将軍就任を理由に改元を申請したとき、後小松上皇は
「臣下のことを原因に改元した先例はあるのか」
と尋ね、難色を示したのです。5年前に朝廷側から改元を打診したのに幕府に拒否されたことへの当てつけでしょう。こうした上皇の態度は、根に持つタイプの義教からの復讐を誘発することになります。
 3月12日。服喪期間も明け、義円はやっと還俗できることになりました。名について管領・畠山満家が「義益」「義宣」「義秀」の三案を本人に示したところ、本人が選んだのは「義宣(よしのぶ)」でした。その日のうちに従五位下・左馬頭に任命され、晴れて殿上人となりました。ちなみに義円は自ら「義宣」を選んでおきながら、その後「よしのぶ」=「世を忍ぶ」に通じるから不吉だということに気づき、翌年には「義教(よしのり)」と改めます。本稿では最初から義教と書くことにします。

義教(義円)のヤバさがまだ明らかになっていない段階ですから、後小松上皇もまだ強気ですね。

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