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日本人の物語00359【平安中期】70代後冷泉天皇

 寛徳2(1045)年1月16日。後朱雀天皇が譲位し、子の親仁親王が即位しました。後冷泉天皇です。
 いよいよ古代最後の天皇、後冷泉天皇の時代となりました。
 後朱雀上皇は、皇太子に尊仁親王を立てようとしました。尊仁親王といえば、後朱雀上皇と禎子内親王の間の子でしたね。藤原氏を外祖父に持たない子ですので、藤原頼通はこの立太子を阻止しようとしますが、藤原能信が後朱雀上皇に取り入ってこれを実現させてしまいました。
 能信にとって尊仁親王は何らの血縁関係もなく、この立太子が実現したからといって何かメリットがあるとは思えないのですが、頼通への対抗意識からこの工作を行ったものと思われます。「頼通の権力が削ぎ落とせるならば何でもいいんだ」とまで言ったかどうかは分かりませんが、結果的に、この藤原氏を外祖父に持たない尊仁親王の立太子こそが、藤原氏による摂関政治を終わらせることとなるのです。そう考えると、藤原能信こそが藤原氏の没落を招いた原因といってもよいでしょう。頼通憎しのあまり、能信は自らも属するはずの藤原氏全体に致命的なダメージを与えてしまったのですね。
 さて、この尊仁親王の立太子に対し、頼通はちょっとした嫌がらせを行います。
 皇太子に代々伝わる「壺切の剣」という品があります。宇多天皇が、子の敦仁親王(後の醍醐天皇)に渡したのが最初と言われ、現在も皇太子が保有していると言われる剣です。
 頼通は、
「壺切の剣は藤氏腹(とうしばら)の東宮のみが引き継ぐもの」
と主張し、壺切の剣を尊仁親王に渡さなかったのです。藤氏腹、つまり母親が藤原氏の出身である皇太子にしか渡せないというわけです。宇多天皇が始めたシステムなのに、そんなわけがありません。明らかな嫌がらせです。
 尊仁親王は
「ならば不要である」
と言って、特に欲しがろうとしませんでした。頼通の嫌がらせはさほどの効果を生まなかったようです。
 永承元(1046)年。藤原能信の養女・茂子(しげこ:?~1062)が皇太子・尊仁親王のもとに入内しました。茂子は藤原公成の子ですが、父を亡くした後、能信の養女となっていました。立太子に功のあった能信が、尊仁親王に接近したわけです。

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