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日本人の物語00648【鎌倉中期】政子死す*

 泰時が執権に就任して間もなく、元号は「元仁」に変わりますが、これは5ヶ月しか続かずワースト3位の短さとなりました。元号は「嘉禄」に変わります。
 嘉禄元(1225)年6月10日、大江広元が死去しました。幕府が無法な武士集団から一躍、政治機構の整った政権に押し上がったのは、政務を一手に握った文人官僚・大江広元の存在によるところが大きかったでしょう。
 さらに7月11日には政子が死去しました。これで鎌倉幕府のスターティングメンバーのほとんどが死去したこととなります。
 北条政子は「尼将軍」などと呼ばれ、歴代将軍に数えられていた時期もありました。もちろん朝廷から征夷大将軍の宣下を受けていたわけではありませんが、実質的には将軍と同等の権力を行使していたというわけです。
 その政子は長らく「悪女」として扱われてきました。北条の繁栄のために息子頼家・実朝を葬った血も涙もない母とみなされて来たわけです。
 中世史やジェンダー史の研究者として知られる野村育世(のむらいくよ)氏は、
「持統天皇、光明皇后、北条政子のように政治を担っていた女性はことごとく悪女とされている。武田信玄や徳川家康も息子を殺しているのに、政子は悪女とされ、信玄や家康が英雄とされるのには、ジェンダーの不均等があるのではないか」
と指摘しています。
 一方で『承久戦物語』には謀略家ではない情愛豊かな政子が描かれています。頼家を亡くした際に政子は
「これこそ浮世の限りなれ。いかなる瀧瀬にも身を投げて空しくならん」
と悲しみに打ちひしがれ、さらに実朝が死んだときには
「尼ほどに物思ひ深き者、世にあらじ」(私ほど悲しい思いをした者は世にいないだろう)
と述べているのです。
 確かに、政子は頼朝との間に産まれた子全てに先立たされています。
 長女・大姫は婚約者・木曽義高を殺害されたことで精神を病み、その病の癒えないまま19歳で亡くなり、次女・三幡も13歳で病死しました。さらに長男・頼家は北条と比企の主導権争いの中で殺害され、次男・実朝は朝廷と幕府の軋轢の中で暗殺されてしまいました。頼家・実朝の殺害が政子の陰謀によるものという証拠はありませんし、息子たちを政治的陰謀によって失った政子は悪女どころか悲劇的生涯を送った女性といえるかもしれません。
 大江広元・北条政子という重鎮を相次いで失った泰時でしたが、ここから鎌倉幕府は安定期に入ります。大きな戦乱もなく、読者にとっては盛り上がりに欠ける部分かもしれませんが、泰時の善政をしっかりと描いていきたいと思います。

寿福寺にある政子の墓。実朝の墓のすぐ隣にある。政子の実朝への想いを汲んでここに造られたのかもしれない。2022年9月24日撮影。
政子の墓は寿福寺だけでなく、安養院にもある。まあ偉い人の墓が複数あるのは珍しいことではない。2022年9月23日撮影。

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