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日本人の物語01077【南北朝中期】第六次京都合戦 兵庫助討死

京都合戦は第七次まであるのですが、やっと第六次まで進みました。Wikipediaですら紹介されていない細かい戦いなので、もしかするとこのブログがネット上で最も詳しい情報かもしれません。

 神南の戦いについて見てきたので、ここからは京の情勢に目を転じていきましょう。
 正平10/文和4(1355)年2月6日。近江国四十九院で十分に軍勢を集め、勢力を盛り返した尊氏は3万騎で入京し、東山に陣を布きます。
 丹波で敵の侵入をみすみす許した仁木頼章は、丹波・丹後の軍勢3千騎を従えて嵐山までやって来ました。
 敵がここまで近づいたのに、2月6日も、翌7日も、東寺にいた直冬は一切出撃しようとしません。ひどく無気力なように見えます。肝心なところで突然意欲をなくしたり、俄然やる気を出したりするところは父親譲りかもしれません。
 戦闘が行われない代わりに、両軍は様々な神社・仏閣の建物を盾に作り替えるために壊したり、山の木を薪や櫓の材料にするために切ったり、敵を見通せるようにするために民家を焼き払ったりしました。ひどい話です。
 結局、戦闘が始まったのは2月8日でした。この戦いを第六次京都合戦と称しますが、「文和東寺合戦」ともいいます。
 最初に敵軍に突っ込んだのは、細川清氏軍千騎です。清氏は四条大宮にいた敵800騎に攻めかかり、追い散らしました。敵軍がさっと退いていった後に、立派な鎧に黒毛の馬に乗った大将らしき武者が1騎残り、その武者が
「さては細川清氏殿であろう。私は北陸道を従えて上って参った桃井直常だ。私の太刀の切れ味を見よ」
と言って、清氏を挑発してきます。
 清氏は敵が大物の桃井だと知り、一騎討ちにふさわしい相手だと思いました。近づくや否や、敵の兜を引っ張って首を斬り、その首を持って尊氏の前で
「桃井播磨守を討ちました」
と喜んで報告したのですが、どうも桃井の顔ではありません。
 昨日降伏してきた敵軍の八田太郎(はったたろう)という者に見せたところ、八田は涙を流して
「これは越中の住人で二宮兵庫助(にのみやひょうごのすけ)という者です。去年敦賀の気比明神の前で、彼は『今度京都の合戦で仁木・細川らを見つけたならば、私は桃井と名乗って勝負しようと思う』と言って、起請文を書いて神殿の柱に貼り付けましたが、本当にそのとおりに討ち死にしたのでしょう」
と述べました。
 太平記が語るこのエピソードは、明らかに平家物語の斎藤実盛(00478回参照)を意識したものでしょう。

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