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日本人の物語01448【室町/西国/大乱前夜】禁闕の変 草薙の剣発見

最近、比叡山の根本中堂に行ったら修復工事中でした。工事が終わったらまた行こうと思ってます。

 三種の神器を奪った賊は、比叡山の根本中堂へと逃げ込みました。延暦寺が味方することを期待してのことでしょう。しかし朝廷は嘉吉3(1443)年9月24日に朝敵を討てとの命令を比叡山宛てに発し、比叡山は管領畠山持国に宛てて南朝方の反乱には加担しない旨を誓約しました。
 賊軍はそんなことも知らず、延暦寺を頼みに根本中堂に潜伏し続けます。延暦寺は密かに賊を討つ準備を始めました。
 一方、三種の神器は別の場所で見つかりました。
 9月25日の早朝、清水寺の境内を歩いていた僧・心月坊承桂(しんげつぼうしょうけい)は仰天しました。境内に無造作に剣が捨てられており、
「これは三種の神器の一つであり、拾った者は返却して欲しい。粗略に扱ったら神罰が当たる」
などと書かれた付札があったのです。心月坊承桂は直ちに幕府に届け出ました。なぜこのような場所に捨てられていたのかは、全くもって不明です。
 9月26日。まだ襲撃のおそれが認められるため、後花園天皇は裏辻持季邸から近衛房嗣(このえふさつぐ:1402~1488)邸に逃れ、さらに遠方の伏見宮貞成邸へと逃れました。貞成親王は息子が襲撃されたと聞いて大慌てだったでしょうが、久しぶりに父子水入らずの時間を過ごすことができたのは嬉しかったことでしょう。
 同じ9月26日、命を受けた延暦寺の衆徒たちは金蔵主と日野有光を討ちました。
 9月28日には、生け捕りとなった有光の子・日野資親(ひのすけちか:?~1443)が六条河原で斬首となりました。もう一人生け捕りとなった通蔵主は流罪と決まったものの、10月4日、護送中に摂津太田(大阪府茨木市)で斬首されます。皇族を斬首とはひどく珍しい話で、室町幕府は後南朝に対して容赦がありません。
 南朝方といえばかつて小倉宮聖承が決起したことがありましたね。その小倉宮聖承は既に死去していましたが、その子の教尊(きょうそん:1413~1443)は今回の事件への関与を疑われ、隠岐へと流罪となりました。隠岐到着後まもなく病死し、ここに小倉宮は断絶しました。
 日野有光・資親父子の死によって、日野本家もまた断絶しました。ここからは日野家庶流の裏松家が日野本家とみなされるようになります。これ以降、義勝・義政生母の裏松重子は日野重子と呼ぶことにしましょう。

日野有光も日野重子も大河ドラマ『花の乱』に登場していました。応仁の乱が近づいています。

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