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日本人の物語00453【平安末期】宇治橋の戦い 戦闘開始

 治承4(1180)年5月25日。頼みの延暦寺が平家方に加勢すると判明したことで、以仁王らはひどく焦っていました。園城寺は延暦寺から山を下った場所にあり、ひどく地理的に不利な場所にあります。
 「ここにいては危ない」と考えた以仁王・源頼政らは、味方になることを約束してくれた興福寺(奈良県奈良市)に移動することとしました。乗馬に慣れない以仁王は、奈良までの道で6回も落馬したと記録されています。
 しかし興福寺に向かう途中、宇治(京都府宇治市)で平家軍に追いつかれそうだと分かり、頼政は以仁王に先を急がせ、自らは平等院に陣を布いて平家軍を防ぐこととしました。あの十円玉の意匠で有名な宇治の平等院です。
 以仁王が逃げる時間を確保するため、宇治川を渡り切った頼政は、宇治橋の橋板を外すという罠を仕掛けます。
 平家軍が宇治橋まで追いついてきました。対岸にいる頼政軍を見つけた平家軍は、宇治橋にわっと押し寄せました。
 平家方は橋板が外れていることに気づかず橋を渡り始めます。先頭集団が板がないことに気づいて戻ろうとしますが、後方から次々と味方がやって来て押し戻されてしまい、次々と川に落ちて流されて行きました。
 平家物語によると200騎もの兵が川に流されたそうですが、九条兼実の日記『玉葉』には
「17騎が川に落ちたが死傷者はなかった」
と記されています。もちろん、後世に作られた平家物語よりも、同時代の公卿の日記の方が真実に近いでしょう。平家物語にはこういった脚色があちこちにあるわけです。これ以降の記述も話半分に考えていただければと思います。
 続いて橋のたもとで、名乗りを挙げる僧がいました。その僧は
「我こそは園城寺の明春(みょうしゅん)。一騎当千の勇僧なり」
と名乗るが早いか、矢を次々と放ち、平家方の兵は数十名が死傷してしまいます。
 矢を切らした明春は、刀を取って橋桁の上を駆け出します。橋を渡ると平家方の兵たちに斬りかかり、これまた十数名を次々と斬り殺していきます。平家方は恐れをなして、なかなか明春に戦いを挑むことができません。
 数の上では圧倒的に有利な立場にいるはずの平家方は、宇治橋の橋板が外されたことと敵方の明春の活躍とで、なかなか苦戦を強いられているようです。

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