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日本人の物語01449【室町/西国/大乱前夜】禁闕の変 奪われた勾玉

今回、禁闕の変の動機についての新説を紹介するのですが、これがかなり分かりにくいのです。来年公開されるであろう映画『禁闕の変』ではどんな動機が描かれるのでしょうね。

 禁闕の変はこれにて一段落、と言いたいところですが、まだ神璽(勾玉)が戻っていません。神璽は後南朝の一味が保管しており、京に戻るまで15年の時を要します。
 三種の神器が欠けるという前代未聞の事態に対し、当代随一の学者である一条兼良は、『日本書紀簒疏(にほんしょきさんそ)』という著書の中でこんなことを述べています。
「三種の神器の中では鏡が重要であり、勾玉と剣は鏡に内包されている」
 勾玉がなくとも困らないとは、明らかに負け惜しみ的な論理でしょう。実際には朝廷も幕府も勾玉奪還に血眼になっていましたし、この15年後の「長禄の変」で見事取り返したときは大喜びでした。
 さて、日野有光がなぜ後南朝と組む必要があったのかは依然として謎のままでしたが、この謎に応える新説が近年登場しました。禁闕の変は「南朝による北朝襲撃」ではなく「後光厳流による崇光流襲撃」、つまり北朝同士の争いだったというのです。
 崇光・後光厳兄弟の対立については何度となく説明してきましたね。最初のうちは「後光厳―後円融―後小松―称光」と後光厳流が皇位を独占してきましたが、称光天皇が子を持たないまま崩御したことから、崇光流の後花園天皇に皇位が移ったところです。
 この頃、有力寺院に皇族・公家の有力者の子弟を送り込んで住職に据える慣例がありました。そのような住職を「門跡」と呼び、その寺院を「門跡寺院」と呼びます。
 各寺院とも、有力者とつながりのある人物を門跡に迎えるべく運動するため、門跡は増える一方でした。そして朝廷では門跡として出せる人材の不足に悩み、旧南朝方(大覚寺統)の皇族を猶子として北朝方に取り込んだ上で門跡に送り込んで来ました。これにより、相当数の南朝皇族が養子縁組により「北朝の後光厳流」と位置付けられたのです。
 ちょうどこの頃、貞成親王(崇光流)に太上天皇を号する話が本格化し、後小松法皇(後光厳流)の遺言を覆しかねない状況がありました。もし太上天皇を号されてしまうと、後花園天皇は「後小松法皇の猶子」ではなく「伏見宮貞成親王の子」と位置付けられ、後光厳流は断絶に追い込まれるのです。
 さて、最近登場した新説とは、通蔵主・金蔵主を「後南朝」ではなく「北朝の後光厳流」とみるものです。通蔵主・金蔵主は後南朝の皇族でしたが、恐らく門跡の候補者として北朝の後光厳流の猶子となったのでしょう。そして後光厳流断絶の危機を知り、太上天皇号への断固反対を主張するため内裏を襲撃した、というわけです。南朝が皇位を奪回するとの目的ではなかったというわけですね。
 今となっては真実は分かりませんが、後光厳流に長年仕えてきた日野有光が後光厳流のために決起したのなら理解できます。いずれにせよ、後花園天皇の内裏から三種の神器が一つ欠けたことは、朝廷と幕府にとって大きなスキャンダルとなりました。

自分で説明しながら「うーん。分かりやすく話すのが難しいな」と思いました。映画でこれを説明するのは無理そうですね。

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