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日本人の物語01458【室町/西国/大乱前夜】経覚と光宣の和解

経覚は近衛家出身の公家で、光宣は筒井氏出身の国衆です。戦闘を指揮するセンスは何となく光宣の方が高そうな気がしますね。

【⑤大和国における旧南朝方と旧北朝方の争い 続き】
 嘉吉4(1444)年1月19日。経覚派となった豊田頼英・古市胤仙は
「光宣方がいつまた襲撃してくるか分からない。防衛のため、鬼薗山(きおんざん)に城を築きたい」
と主張しましたが、経覚はこれを却下しました。というのも、鬼薗山は興福寺を見下ろす位置にあるため、興福寺を神聖なものとして崇める経覚にとっては我慢ならなかったのでしょう。しかし経覚はこの判断を後悔することとなります。
 光宣方の行動はすばやいものでした。1月21日に光宣は筒井順永と組んで筒井城を攻撃してきます。城主・筒井実順は家臣の裏切りに遭って自決し、かくして筒井城は光宣方の手に奪回されました。
 経覚も負けじと管領・畠山持国を通して朝廷に働きかけ、光宣治罰の綸旨が発給されました。光宣は朝敵の汚名を着ることとなりました。
 改元されて文安元(1444)年2月26日、経覚は兵を派遣して筒井城を攻撃させますが、大敗してしまいます。
 防衛に成功した光宣方は勢い付きました。この勢いで興福寺もやられるかもしれないと考えた経覚は2月28日に奈良を離れ、京へと避難しました。戦局を見て4月19日に興福寺に戻ってきましたが、結局6月になって経覚は鬼薗山に城を築くことを決定し、8月10日に鬼薗山城に移ったのでした。
 経覚と光宣のにらみ合いが続く中、文安2(1445)年3月に管領が畠山持国から細川勝元に交代し、幕府の方針は微妙に変わっていきました。これまでは持国のリーダーシップのおかげで「経覚を支援し、断固として筒井勢を討伐する」と言っていたのが、やや筒井討伐の意欲が失われていったのです。
 9月になると再び合戦が始まりました。築城の努力もむなしく経覚らは光宣ら筒井勢に敗れ、興福寺を放棄して安位寺(あんいじ:奈良県御所市)へと逃れます。せっかく築いた鬼薗山城には光宣が住み始め、光宣は再び関務代官に任じられました。
 決着がついて戦乱が終わったところで、戦火を逃れて成就院に潜伏していた尋尊は、ようやく興福寺禅定院に戻ってきました。尋尊は経覚の弟子ではありますが、正直いって経覚のことは好きではありません。光宣と経覚の戦いに対してはただの傍観者だったといえます。
 享徳2(1453)年6月24日。反筒井方の急先鋒だった古市胤仙が死去しました。これによって経覚方と光宣方は一挙に和解ムードとなります。
 享徳3(1454)年12月には経覚と光宣が直接対面し、遂に和解しました。長年に渡る大和国内の戦いはようやく収束したのです。

尋尊の日記を見ると、何かと戦闘から距離を置こうとしているように見えます。中立を貫くことで寺を守ろうとしたのでしょう。政治闘争によって利益を得ようとする経覚とはだいぶ異なります。

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