日本人の物語01011【南北朝前期】第三次京都合戦 裏切り続出
秋山と安保の一騎討ちが終わると、いよいよ本格的に合戦が始まりました。桃井軍の7千騎が仁木・細川ら1万騎とぶつかり合います。両軍とも必死に戦って疲れてきたところに、打合せ通り佐々木道誉が700騎で桃井軍の後ろからどっと襲い掛かってきました。桃井軍の兵たちは驚いてバラバラになってしまいます。
桃井軍が徐々に押されますが、八幡にいるはずの直義らの援軍はなかなかやって来ません。頼みの綱である援軍が来ないまま、桃井軍はさすがに疲れて東山に引き上げようとしますが、すかさず尊氏・義詮軍5千騎がその退路に立ちはだかります。
桃井軍は結局、戦い疲れたところを三方向から大軍に囲まれてしまいました。残る一方向が、粟田口から山科へと向かう山道です。桃井軍は命からがらそこから撤退していきました。
こうして骨肉の兄弟争いは、兄・尊氏の方に軍配が上がりました。もはや桃井ら直義軍は勢いを失うだろうと誰もが思ったのですが、何とも不思議なことに、正平6/観応2/貞和7(1351)年1月15日夜、尊氏軍から兵たちが次々と抜け出して、八幡の直義軍に加わってしまいました。さらに1月16日には信頼していた家臣・薬師寺公義までもが裏切って八幡に行ってしまいます。
尊氏は不思議がって
「これは一体何事か。我々の方が有利な状況だというのに、味方の兵から次々と裏切り者が出るとは。これでは都の中で再び戦うのは難しい。しばらく西国に退いて、中国地方で軍勢を集めてから再戦しよう」
と述べ、師直らがこれを支持したため、1月16日中に尊氏らは丹波路へと逃げていきました。
勝利者から次々と裏切り者が出るとは実に不思議な出来事ですが、その原因はよく分かっていません。『太平記』は
「昨日は尊氏軍が喜び直義軍が悲しんだ。今日は逆に、直義軍が喜んで尊氏軍が悲しむこととなった。吉凶はあざなえる縄の如しである」
と述べています。
そして翌1月17日。直義は八幡から京へと入りました。弟の完全勝利です。
入京した直義はすぐさま光厳・光明両上皇に挨拶を申し入れています。南朝に降伏しておきながら、北朝にも気を遣っているわけです。場合によっては、直義は両上皇から尊氏追討命令をもらっていたかもしれず、そうなったら尊氏は北朝・南朝双方から朝敵とみなされていたことになります。実に危ういところでした。
