見出し画像

日本人の物語01659【室町/西国/六角征伐】馬門原の戦い

なぜ九州では「原」を「ばる」と読むのか。未だに答えを知りません。

 文明17(1485)年の出来事としてもう一つ取り上げておかねばならないのが、阿蘇氏の内紛である馬門原(まかどばる:熊本県山都町)の戦いです。
 南北朝時代に、阿蘇惟澄の長男・惟村が北朝方、次男・惟武が南朝方につき、双方が大宮司を名乗っていたのでしたね(01095回参照)。その後、南北朝が合一された後も大宮司は旧北朝方・旧南朝方に分かれたまま争っていました。
 1430年代には惟村の孫・惟忠(これただ:1415~1485)と惟武の孫・惟兼(これかね)の対立となりました。しかし子が産まれなかった北朝の惟忠が、宝徳3(1451)年に惟兼の子・惟歳(これとし:1444~?)を養子とし、大宮司の職を譲ったことで両統の対立に終止符が打たれました。南北朝の争いは明徳3(1392)年に終わったはずなのに、阿蘇ではその後60年も経ってからやっと終わったのですね。
 ところが、話はこれでは終わりませんでした。大宮司・惟歳が子の惟家(これいえ)に職を継がせたものの、問題はその後に発生しました。なんと隠居中の惟忠に、実子・惟憲(これのり)が産まれてしまったのです。
 惟忠は晩年になって産まれた子がかわいかったらしく、惟憲に家督を継がせようとして武力衝突が起こりました。それぞれの陣営に属する国人は次のとおりです。
 惟憲派: 阿蘇惟忠、相良為続
 惟家派: 阿蘇惟歳、菊池重朝(きくちしげとも:1449~1493)
 惟忠が文明16(1484)年3月28日付けで「播磨」と呼ばれる何者かに宛てた次のような書状が残っています。
「この度の戦いは菊池や惟歳・惟家から仕掛けてきたものであり、理は我らにある。阿蘇家の譜代の者たちは我らに味方すると申している。それなのに新左衛門(誰なのか不明)は我らの恩を忘れて敵方についてしまった。権大宮司の職はそなたに授けよう」
 いやはや、一旦相手に譲った家督を自らの子に取り返そうとしている自分の非は棚に上げ、相手方を一方的に非難しています。子を持つと欲が出るものなのでしょう。
 両者の争いが収まらないまま、文明17(1485)年5月1日に阿蘇惟忠は病死しました。その直後の12月に馬門原で惟憲派と惟家派の全面対決が行われました。相良為続と菊池重朝の戦いです。馬門原の戦い又は暮の平(くれのひら)の戦いと呼ばれています。
 結果、菊池方(惟家派)が大敗し、惟憲が大宮司の座を継ぎました。九州の中世史を牽引していたはずの菊池氏は、この戦いに敗れたことで影響力を大いに削がれることとなりました。

菊池氏って、南北朝時代には相当な活躍を見せていたのに、戦国大名としては全然知られていませんよね。私もこの連載を始めるまでは南北朝時代の菊池武光くらいしか知りませんでした。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集