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日本人の物語00632【鎌倉前期】承久の乱 即刻出撃論

 大江広元は、
「時間が経てば経つほど、院宣が全国に行き渡って敵が増える。それならばこちらから討って出て、相手方に時間を与えない方がよい」
と見込んだのでしょう。同じく文官の三善康信もこれに賛成しました。
 では出撃しようと決定しましたが、今度はその時期について議論がまとまりません。広元は直ちに出撃すべしと主張しますが、泰時は
「人数が集まるまで待つべきです。2、3日経ってから上洛してはどうでしょう」
と提案します。御家人たちは一旦領地に戻って準備をしてから出撃する必要があるため、時間がかかると考えたのです。
 義時は泰時の消極策を叱責し、広元の即刻出撃論に同調しますが、異論も多かったことから出撃の時期について結論は出ませんでした。
 2日後の承久3(1221)年5月21日。京から一条頼氏(いちじょうよりうじ:1198~1248)が鎌倉に亡命してきました。一条頼氏は藤原一族の出身ですが、北条時房の娘を娶って幕府と良好な関係を保っていたことから、身の危険を感じたのでしょう。
 一条頼氏は、京に続々と上皇に従う武士たちが集まっていること、西園寺公経・実氏父子が幽閉されたこと、伊賀光季が自害に追い込まれたことなど、京の状況を詳らかに伝えました。これを聞いた御家人たちに動揺が広がり、
「やはり京に出撃しても勝利の見込みはないのでは」
と慎重な意見が出てきますが、広元はさらに強硬に出撃を主張しました。
「せっかく上洛と決したのに、時間が経過したため反対論が出てきてしまった。今からでも、泰時一人でも出撃すれば、御家人たちは次々と続いて出撃するはずだ」
と言うのです。三善康信もまた、
「あれこれ議論をする暇があったら、さっさと大将軍だけでも派遣すべきです」
と賛成しました。
 5月22日。泰時が総大将として出撃することとなりました。出発に当たり、泰時は鶴岡八幡宮に参拝し
「もし我が上洛が道理に叶わぬものならば、我が命を召したまえ」
と祈ったといいます。朝廷を敵に回すことに迷いがあったのでしょう。
 鎌倉を出た泰時の軍勢は僅か18騎でした。少し遅れて時房や三浦義村らがこれを追いかけ、さらに東国武士が次々と続き、最終的には19万人に膨れ上がったと吾妻鏡は記していますが、さすがに誇張でしょう。

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