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日本人の物語00222【奈良】大仏開眼

 光明皇太后とつるんだ藤原仲麻呂が政権を握る中、天平勝宝2(750)年、吉備真備が筑前守(福岡県知事)に左遷されました。かつて孝謙天皇の教育係を務めていた真備は、孝謙天皇の信頼が厚かったですから、当然孝謙天皇はこれに反対したはずです。真備の左遷が強行されたということは、仲麻呂の権力が孝謙天皇を上回っていたことを意味します。
 さて、ここに来て7年間ずっと続いていた国家的大プロジェクトが遂に終わりを迎えます。天平勝宝4(752)年4月9日、平城京内に作られた大仏がようやく完成し、開眼供養が行われたのです。この一大イベントに際して、天竺(インド)から招致した僧・菩提僊那(ぼたいせんな:704~760)が導師を務め、聖武上皇、孝謙天皇、光明皇太后らが列席しました。
 実際にはまだ完成までにいくらか作業が残っていたのですが、聖武上皇の身体の加減がよろしくなかったため、生きているうちに執り行いたかったのでしょう。作業途中での開眼供養となりました。
 それにしても、疫病や飢餓といった問題を解決するために大仏を建立するとは、まるで逆効果の政策です。莫大な材料費で財政をより逼迫させた上、働かされた人夫たちは全員タダ働きで、国民に大きな負担を課しています。
 公式歴史書である『続日本紀』を見る限り、聖武天皇が都を次々と移転させたり、国分寺・国分尼寺・大仏といった大規模造営を行うよう指示したりしたとき、為政者たる橘諸兄たちがどのように振る舞ったのかを窺い知ることはできません。良識ある政治家なら大仏建立など企画の段階で止めに入ったでしょうが、聖武天皇のこだわりが強く、止められなかったのでしょう。諸兄たちは、大仏開眼の儀式をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。
 さて、その後奈良の大仏は、地震によって首が落ちたり、源平合戦と戦国時代の二度炎上したり、多くの苦難をなめることとなりました。現在鎮座されている大仏は作り直したもので、奈良時代に製作された部分はごく一部しか残っていませんが、当時の息吹を伝える貴重な文化遺産です。
 また、東大寺大仏殿という超巨大木造建築もまた、規格外の大きさです。現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1mですが、奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだそうです。
 ちなみに、奈良県内の建築物の高さランキングは次のとおりです。
 1位: 興福寺五重塔 50.1m
 2位: 東大寺大仏殿 49.1m
 3位: 奈良県庁(塔屋最頂部) 48.4m
 4位: ミグランス(橿原市役所分庁舎) 47.71m
 (景観維持を目的とした法規制のためとはいえ)現在においてもなお第2位の高さを誇っているわけですから、当時としてはまさに怪物的な巨大建築だっただろうと思います。

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