日本人の物語00500【平安末期】一ノ谷の戦い 敦盛の最期
戦に決着がつき、源氏方による平家方の落ち武者狩りが始まりました。
源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね:1141~1207)が海岸沿いを歩いていたところ、大将軍らしき武者が沖の舟に向かっているところを見つけます。武者は平家方が出した助け舟に乗ろうとしていたのでしょう。そこに直実は
「情けなくも敵に後ろを見せるのか。戻ってこい」
と呼びかけ、扇を使って招きました。
そこまでされて逃げるようでは武士ではありません。平家方の武者は戻ってきて、直実と一騎打ちとなりますが、剛力で有名な直実はあっという間に相手をねじ伏せます。直実が相手の兜を取って顔を見ると、自分の息子に近い年齢の少年が薄化粧にお歯黒をしていて、何とも高貴な顔立ちでした。
直実はふと、我が子の小次郎のことを思い出します。「小次郎が軽傷を負っただけでも自分は心苦しくなるのに、この少年が死んだらその父はどれだけ悲しむだろうか」と思うと、この少年を自らの恩賞目的で殺すということは思いもよらぬことでした。
直実は少年を助けようとしますが、そこに後ろから味方の軍勢がわっと駆けてきました。助けることは諦め、
「かくなる上は私の手で殺し、後の供養をしたい」
と申し出たところ、少年は「早く殺せ」とだけ言って、名乗ろうともしませんでした。
その後、直実がこの少年の首を実検にかけたところ、清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり:1169~1184)と判明しました。直実はこのような少年をも手にかけてしまった自らの罪業を思い、出家を考え始めます。
それからだいぶ経った建久3(1192)年11月25日、直実は久下直光(くげなおみつ)という豪族と所領争いを起こし、鎌倉での口頭弁論に出席しました。口下手な直実は頼朝の質問に上手く答えられず、憤怒して
「梶原景時が直光をひいきにしているせいで、私の敗訴は決まっているも同然だ。何を申し上げても無駄だ」
と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、そのまま出家してしまいました。頼朝は呆気にとられたといいます。
後に直実の生涯は能や幸若舞の主題となり、特に直実が出家したときに詠んだ
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を受け、滅せぬもののあるべきか」
という一節は、後世に織田信長が好んで舞ったことで知られています。
現在、熊谷直実が領地としていた埼玉県熊谷市の熊谷駅前には直実の騎馬像が設置され、地元の人々に親しまれています。

