日本人の物語00211【奈良】長屋王の変
神亀4(727)年閏9月29日。聖武天皇と藤原光明子の間に基皇子(もといのみこ:727~728)が産まれます。基皇子は生後僅か2ヶ月という異例の早さで立太子します。おそらく藤原四子が、藤原の血を引く皇子を早く皇位に就けたくて画策したものでしょう。
ところが翌神亀5(728)年9月13日、基皇子は1歳で病死してしまいます。この出来事が、長屋王の失脚の原因となるのです。
まずは、長屋王と懇意であった大伴旅人(おおとものたびと:665~731)が大宰帥に左遷されました。旅人は子の家持(やかもち:718?~785)を従えて九州の大宰府(福岡県太宰府市)に赴任します。これは長屋王を追い落とすための布石だったと考えられます。
ちなみに天平2(730)年、大伴旅人は左遷先の大宰府において、高官らを自邸に招いて梅花の宴を開きました。その宴で、「時に初春の令月にして気よく風和らぐ」との歌が詠まれ、これが元号「令和」の語源となりました。大伴旅人の左遷がなければ「令和」という元号にはならなかったと思うと、不思議な運命を感じますね。
いよいよ陰謀は長屋王本人へと迫っていきます。神亀6(729)年2月10日。中臣東人(なかとみのあずまひと:?~738)から、「長屋王は左道(妖術)を用いて国家を倒そうとしている。基皇子を殺したのも長屋王の呪いによるものだ」との密告がありました。これを受け、藤原四子はすぐに軍勢を駆り出し、長屋王宅を取り囲みます。
さて、長屋王が基皇子を呪い殺す動機はあるのでしょうか。藤原四子は「長屋王は自らの子の皇位継承を狙った。それが動機である」と主張します。というのも、聖武天皇の子女を見ていきますと、藤原光明子との間に産まれたのが、
・阿倍内親王(あべないしんのう:後の孝謙天皇:718~770)
・基皇子
の2名。そして県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)との間に産まれたのが、
・井上内親王(いのえないしんのう:717?~775)
・不破内親王(ふわないしんのう:723?~795?)
・安積親王(あさかしんのう:728~744)
の3名で、このうち安積親王は母の身分が低く立太子は困難であり、一方、基皇子は夭折したわけですから、聖武天皇の子たちの中に適当な候補者はいません。となると、長屋王の子たちに皇位が回ってくる可能性が高くなります。つまり、基皇子の死は確かに、長屋王にとって有利に働いているというわけです。
長屋王は弁明をせず、「刑死するよりは自ら死を選ぶ」として、妻・吉備内親王とともに服毒自殺しました。もはやどのような弁明をしたとしても、聞く耳を持たず処刑されると覚悟していたのでしょう。これにあわせて、長屋王の4人の子も縊死してしまいます。この事件を「長屋王の変」といいます。
