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日本人の物語00716【鎌倉後期】94代後二条天皇(大覚寺統)

 大覚寺統の勢いはとどまることを知りません。
 正安3(1301)年1月21日、大覚寺統から幕府への働きかけにより、後伏見天皇は僅か2年半の在位期間で皇太子・邦治親王に譲位させられました。後二条天皇の誕生です。持明院統から大覚寺統に皇位が移動したこととなります。
 伏見上皇はすっかり落胆してしまい、伏見の離宮に閉じこもり
「我のみぞ 時失へる 山陰や 垣根の草も 春にあへども」
(山陰や垣根の草も春を迎えているというのに、私だけ時間が止まったようだ)
と詠みました。
 とはいえ、幕府は大覚寺統を一方的に利することにして、持明院統を廃してしまおうというほどの意図はなかったようです。正安4(1302)年8月になり、皇太子を選定する段になると、幕府は
「皇太子は順序からして持明院統であろう」
と指示してきました。
 持明院統の後伏見上皇はまだ14歳で子がないため、その弟の富仁親王(後の花園天皇:1297~1348)を立太子することとなりましたが、こういうことをすると、後で兄弟どちらの系統が皇位を継いでいくのか、揉めることとなります(そうやって揉めたのが持明院統と大覚寺統です)。
 分裂を回避するため、兄弟の父である伏見上皇は
「胤仁(後伏見上皇)に将来子があれば、そこへ譲位あるべし」
と定め、あくまで兄の系統を重視すると宣言しました。
 朝廷での政権移行と時を同じくして、幕府においても政権交代がありました。正安3(1301)年8月22日に、9代執権貞時が辞職したのです。
 かつて5代執権時頼が、5歳の嫡子・時宗への権限移譲を円滑に行うため、自分が生きているうちに分家筋の赤橋長時に執権職を譲ったことがありました。結局5代時頼から8代時宗に執権職が継がれるまでに、6代長時・7代政村と2人の分家筋が挟まれることとなりました。
 今回も同様の判断があったのでしょう。貞時に嫡子の菊寿丸(きくじゅまる:1298~1302)が産まれたため、最も信頼する従弟の北条師時(ほうじょうもろとき:1275~1311)に執権職を譲ることとなりました。自分の目の黒いうちに執権がしっかり菊寿丸を後見してくれる体制を作ろうとしたわけです。といっても、師時に大きな権限は与えられず、政務のほとんどは引き続き得宗貞時が見ることとなりました。
 その後、肝心の嫡子・菊寿丸が正安4(1302)年9月30日に夭折してしまいますが、嘉元元(1304)年12月2日には貞時の次男・高時(たかとき:1304~1333)が産まれ、貞時から息子への政権移譲の準備が入念になされていきました。

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