日本人の物語01626【室町/西国/六角征伐】六角征伐概観
新章突入です。この辺りからチャプタータイトルを名付けるのに苦労しています。
応仁の乱終結直後から明応の政変まで、つまり文明9(1477)年11月20日から明応2(1493)年6月29日までの西国情勢(京を含む)を「六角征伐」としてまとめます。この時期は、応仁の乱によって凋落した将軍権力を、9代義尚・10代義材という2人の将軍が取り戻そうと頑張る時期です。そのために幕府に逆らい続ける六角高頼(当時は六角行高と名乗っていましたが、本稿では高頼で統一します)を征伐しに将軍自ら出向いたのですが、中途半端な結果に終わります。
9代義尚は、父・義政への反発から父と真逆な将軍であろうとしたイメージがあります。反逆者の討伐に当たって、将軍自ら出陣して現地で指揮を執ろうとしたのがその典型的な点です。しかし、
・側近ばかりを重用し過ぎたこと
・守護の利益につながらない六角征伐にこだわってしまったこと
・両親との関係が険悪で、出奔未遂を起こすなど子供っぽい行動が目立ったこと
などから、周囲の評判は悪かったようです。酒浸りの生活を続けたせいで体を壊し、25歳の若さで死去します。
義尚には子がなく、義政の子も他にいなかったため、10代将軍は義政の甥の中から探すこととなりました。選ばれたのは足利義視の子・義材です。義材は
・10代将軍の頃: 義材(よしき)
・将軍の座を追われた後: 義尹(よしただ)
・再び将軍として返り咲いた後: 義稙(よしたね)
とコロコロ名前を変えるのでややこしい人物です。
義材は義尚と同様、将軍権力を取り戻すべく奔走し、六角高頼征伐や畠山義就征伐に自ら出陣しました。しかし、腹心であるはずの管領・細川政元に見放され、遂に将軍の座から引きずり降ろされてしまいます。この事件は「明応の政変」といわれ、戦国時代の始期とみなされています。つまり将軍の首が家臣によってすげ替えられてしまった事件をもって、室町幕府の統治能力が失われて戦国時代に移行したとみるわけです。
9代義尚と10代義材はまさに同じ轍を踏んでおり、同じ歴史を二度繰り返しているように見えます。前者は両親(義政・富子)の介入に苦しみ、後者は政元の反逆に苦しんだという程度の違いで、その性格・手法は非常に似通っているのです。
以上のとおり、本章では室町幕府が最後にもう一花咲かせようと頑張ったものの、挫折していく状況をご覧いただくこととなります。
衰退していく政権が再浮上することって、日本史ではそこそこ珍しいですよね。足利義満はある意味では偉大だったと思います
